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中院通顕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
中院通顕
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 正応4年(1291年
死没 興国4年/康永2年12月20日1344年1月6日
改名 通平→通具(通真)→通顕→空乗(法名)
別名 号:如法三寶院
官位 正二位内大臣
主君 伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇後醍醐天皇
氏族 中院家
父母 父:中院通重、母:源通能の娘
兄弟 通顕、成助、通持、道祐、寛恵
白拍子明一
通冬通数、女子
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中院 通顕(なかのいん みちあき)は、鎌倉時代後期の公卿歌人内大臣中院通重の子。官位正二位・内大臣。

経歴

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正応5年(1292年)生後僅か1年で従五位下叙爵し、正応6年(1293年)従五位上、永仁2年(1294年正五位下、永仁4年(1296年従四位下、永仁5年(1297年)従四位上と陞叙され、この間に通平から通具(または通真)を経て通顕と改名している。

永仁6年(1298年春宮権亮に任ぜられ、胤仁親王(のちの後伏見天皇)に仕える。親王が即位すると昇殿を聴され、正四位下に陞叙。永仁7年(1299年)には左近衛中将に任ぜられた。正安3年(1301年後二条天皇の即位後も再び昇殿となり、徳治2年(1307年)に蔵人頭を務めるなど天皇に仕える一方、春宮昇殿を聴され富仁親王(のちの花園天皇)とも関係を深める。また、この間に備中権介丹波介を経て従三位参議となり公卿に列した。

左衛門督検非違使別当を経て権中納言となる。延慶4年(1311年)には従二位に叙され、正和5年(1316年)に中納言に任ぜられる。また、淳和・奨学院別当に補されている。文保2年(1319年)に権大納言に任ぜられるが翌年辞任した。

元徳3年(1331年)還任し大納言に進み、春宮大夫を兼任。奨学院別当に復し、元弘2年(1331年)に内大臣に任ぜられるが翌年楊梅俊兼と共に出家して引退した。

出家後は北朝側に付き、康永2年/興国4年12月(1344年1月)薨去。享年53。『続千載和歌集』以下の勅撰和歌集和歌が入集している。

官歴

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※以下、『公卿補任』の記載に従う。

  • 正応5年(1292年)2月27日:従五位下
  • 正応6年(1293年)正月5日:従五位上(臨時)
  • 永仁2年(1294年)正月6日:正五位下(中宮當年御給)、名を通平から通具(または通真)に改む
  • 永仁4年(1296年)正月5日:従四位下、名を通顕に改む
  • 永仁5年(1297年)11月14日:従四位上(中宮朔旦御給)
  • 永仁6年(1298年)5月22日:春宮権亮、7月22日:昇殿、8月10日:止権亮、10月10日:正四位下(御即位永福門院御給)
  • 永仁7年(1299年)4月12日:左近衛中将
  • 正安3年(1301年)正月22日:昇殿、2月14日[1]:備中権介、8月24日:春宮昇殿
  • 嘉元4年(1306年)3月30日:丹波介
  • 徳治2年(1307年)4月3日:蔵人頭、9月17日:従三位(左中将如元)、11月1日:参議
  • 徳治3年/延慶元年(1308年)8月17日:左衛門督、使別当、12月10日(1309年1月21日):権中納言(左衛門督別当如元)
  • 延慶2年(1309年)2月23日::辞別当、9月1日:止督、9月7日:帯剣、11月23日:正三位
  • 延慶4年(1311年)正月5日:従二位
  • 応長2年(1312年)3月3日:正二位
  • 正和5年(1316年)9月12日:中納言、10月7日:淳和・奨学院別当
  • 文保2年(1318年)8月24日:権大納言
  • 元応元年(1319年)10月27日:辞任
  • 元応2年(1320年)9月:止別当
  • 元亨2年(1322年)正月12日:喪(母)
  • 元徳3年/元弘元年(1331年)2月21日:還任、10月28日:大納言、11月8日:春宮大夫
  • 元弘2年(1332年)7月7日:奨学院別当、10月14日:内大臣
  • 元弘3年/正慶2年(1333年)5月8日:出家

系譜

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脚注

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  1. ^ 3月14日とも。