丸柏百貨店
本社所在地 |
日本 福岡県若松市(北九州市若松区)中川通2丁目[1] |
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設立 | 1934年(昭和9年)1月[1] |
業種 | 小売業 |
事業内容 | 百貨店 |
代表者 | 柏原善蔵(社長)[1] |
資本金 | 40万円[1] |
従業員数 | 250[1] |
決算期 | 3月[1] |
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 非上場 |
本社所在地 |
日本 福岡県北九州市若松区本町3丁目6番3[2] |
代表者 | 代表取締役社長 柏原一晃[2] |
丸柏百貨店[3] Marukashi Department Store | |
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店舗概要 | |
所在地 | 福岡県北九州市若松区本町3丁目6番3[2] |
開業日 | 1938年(昭和13年)[3] |
閉業日 | 1979年(昭和54年)8月[3] |
商業施設面積 | 6,344 m²[3] |
後身 |
若松井筒屋 ↓ ホテルルートイン北九州若松駅東 |
最寄駅 | 若松駅 |
丸柏百貨店(まるかしひゃっかてん)は、1938年(昭和13年)から1979年(昭和54年)8月まで福岡県北九州市若松区本町3丁目にあった日本の百貨店である。
歴史・概要
[編集]1889年(明治22年)に丸柏呉服店として創業したのが始まりである[3]。
1910年(明治43年)に本城太物店と改称した後、1938年(昭和13年)に丸柏百貨店として百貨店化した[3]。
筑豊炭鉱の石炭を関西や瀬戸内の需要地に積み出す港町として栄えた若松市(現在の北九州市若松区)の中心市街地[4]、本町3丁目の中川通りと本町通の交差点角[5]に位置して商店街の中核として営業し[4]、炭鉱会社や船舶会社などの関係者達の需要を背景に順調に業績を伸ばし[3]、屋上遊園地は他の百貨店と同様に子供達に親しまれていた[6]。
また、石炭の輸送拠点として栄えた若松を象徴する貨物輸送の市電が走る中川通りに面していたため、かつては目の前の大通りを貨物電車が通り抜ける珍しい百貨店でもあった[4]。
その後エネルギーの石油への転換や輸入炭の流入に伴って筑豊炭鉱の壊滅の影響を受けて若松の商業機能が衰えた[4]影響で業績が低迷し、1979年(昭和54年)8月に小倉に本拠を置く井筒屋に営業を譲渡して閉店し、丸柏百貨店としての歴史に終止符を打った[3]。
そして、井筒屋が1979年(昭和54年)10月に若松井筒屋として百貨店を開いて営業を引継いだ[3]ものの、小倉北区への商業機能の集中化などによる影響も受けて地元若松区以外の集客が困難な地域性もあり[7]、1995年(平成7年)に閉店に追い込まれて完全に消滅した[3]。
その後、跡地は更地化されていた[4]が、2007年(平成19年)8月23日にホテルルートイン北九州若松駅東が開業している[5]。
跡地には丸柏百貨店跡の碑が建てられ、往時をしのんでいる[8]。
脚注・出典
[編集]- ^ a b c d e f 百貨店年鑑 昭和16・17年度, 日本百貨店通信社, (1941-1-25), pp. 160
- ^ a b c d 日本商業年鑑 1972年版, 商業界, (1972), pp. 502
- ^ a b c d e f g h i j 皆川重男. “市街地空間の形成過程における中小百貨店の役割 業態店としての百貨店の空間構造を中心として”. 萩国際大学論集 4巻1号 (萩国際大学 論集委員会) (2002-9).
- ^ a b c d e 福田年秀. “若松・わが故郷”. いちもん 第56号 (いちもん編集委員会) (2003-11-8).
- ^ a b 中西實. “かんもん北九州ファンよろず案内 若松に待望のホテル誕生”. かんもん北九州ファンクラブ 会報 第65号 (かんもん北九州ファンクラブ) (2007-8-29).
- ^ “若松の歴史一目で 1日から写真展 わかちく史料館”. 西日本新聞 (西日本新聞社). (2011年10月1日)
- ^ 平成22年度 北九州市商圏調査報告書 (Report). 北九州市. 2010.
- ^ “若松区 郷土の誇り火野葦平 没後50年記念 若松の街を歩く vol.3 中川ストリート”. 市政だより 平成22年1月15日号 (北九州市). (2010年1月15日)
関連項目
[編集]- 山城屋 (百貨店):同じく第2次世界大戦前から北九州にあった地場資本の百貨店