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丹波幹雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
丹波 幹雄
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県横浜市
生年月日 (1974-09-30) 1974年9月30日(50歳)
身長
体重
193 cm
94 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1998年 ドラフト8位
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

丹波 幹雄(たんば みきお、1974年9月30日 - )は、神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。

来歴・人物

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横浜高校で1年から投手としてベンチ入りしたが、肘を痛め1年冬に退部。以後野球からは離れていたが、1995年8月17日に当時の横浜高校野球部の2年生エース4番打者、将来を嘱望されていた弟・慎也が心臓発作を起こして急逝。その後弟の遺志を継ぐべく、1996年から社会人野球クラブチームであるWIEN BASEBALL CLUBに入って野球を再開した。

1998年のドラフト会議ヤクルトスワローズに8位指名され入団。当時、小倉恒以来6年ぶりとなるクラブチームに所属する選手としての指名だった。

しかし一軍で登板する事はできず、2002年戦力外通告を受けて現役を引退した。

引退後は横浜市交通局を経て、川崎市川崎鶴見臨港バスでバス運転手として勤務している[1]

弟・丹波慎也に対する評価

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弟の丹波慎也は活躍を嘱望されながらも実績を残す前に17歳(高校2年)で急逝したが、各種報道では松坂大輔(同じく横浜高校の野球部で、慎也の2年下の学年で活躍した)以上の逸材だったとしてたびたび取り上げられている。

50年以上横浜高校を指導した渡辺元智は、慎也について「総合的に見て松坂より上だった。ストレートの速さは松坂以上の選手になっていたかもしれない」と評している。

同校野球部で慎也の1年後輩であり現在は俳優として知られる上地雄輔は、慎也に憧れて横浜高校に入学し、捕手を務めた。上地は後に自身の1年後輩である松坂大輔ともバッテリーを組んだが、慎也について「漫画みたいな人で、一番の天才だったと思う。同じ時期で比べたら、松坂よりも間違いなく完成度が高かった」と評している[2][3]

詳細情報

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年度別投手成績

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  • 一軍公式戦出場なし

背番号

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  • 62 (1999年 - 2002年)

脚注

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  1. ^ “消えた天才松坂大輔超えの天才投手&室伏広治が憧れた伝説の天才SP”. テレビ出た蔵. (2018年11月18日). https://web.archive.org/web/20230205013601/https://datazoo.jp/tv/%E6%B6%88%E3%81%88%E3%81%9F%E5%A4%A9%E6%89%8D/1214509 2023年2月5日閲覧。 
  2. ^ 17歳で急死した横浜高伝説の投手 渡辺前監督「総合的に松坂より上だった」”. Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社 (2018年11月18日). 2018年11月19日閲覧。
  3. ^ 上地雄輔の大事な思い出。上地雄輔オフィシャルブログ 神児遊助 2007年8月30日 2018年11月18日閲覧

関連項目

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