丹羽氏重
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時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 永禄12年(1569年)[1] |
死没 | 天正12年[1]4月9日(1584年5月18日) |
別名 | 次郎助[1]、次郎三郎[1] |
戒名 | 常英[1] |
墓所 | 妙仙寺(岩崎)[1] |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 一色丹羽氏 |
父母 | 父:丹羽氏勝 |
兄弟 | 氏次、氏重、加藤忠景室 |
丹羽 氏重(にわ うじしげ)は、安土桃山時代の武将。徳川氏の家臣。尾張国傍示本城主(現愛知県愛知郡東郷町春木市場屋敷に城跡石碑)[2][3]。
生涯
[編集]永禄12年(1569年)、丹羽氏勝の子として生まれた[1]。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、兄・丹羽氏次は徳川家康に従軍したため、氏次に代わって尾張岩崎城を守備[1]。氏重は痘瘡(天然痘)を患っていたが[1]、豊臣秀吉軍・池田恒興らが率いる三河奇襲部隊が城の前を通過すると、「見過ごすは末代までの恥」、「敵の動きを小牧山は未だ知らないであろう。われらが敵を食い止め討死すれば、必ず小幡城には聞こえる。また、小牧にも知らせが届こう。ご恩を奉ずるのは今日の一戦にある」と城兵239人に討死覚悟で一戦を命じた。
池田隊は、小城の岩崎城に構わずに進軍するつもりだったとされる[4]が、岩崎城からの攻撃に応戦した。池田軍の攻城隊を三度に渡り撃退するなどよく戦ったが、新手として現れた森長可軍の銃撃に怯んだ隙に討ち取られた。享年16[1]。
氏重の討死を知った榊原康政は「氏重殿以下、ご立派な最後。仇はこの一戦で必ず討ち果たしましょうぞ」と氏次に伝令を送った。康政の伝令に氏重の兄・氏次は、「康政殿のお心遣い痛み入ります。仇は必ず討ち果たします」と応答したという(岩崎城の戦い)。この一戦は、秀吉軍の中入り部隊を足止めし、小牧・長久手の戦いの織田・徳川軍の勝利に貢献したとされる[5][6][7] 。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 阿部・西村 1987, p. 609.
- ^ 服部英雄「昭和30年代・濃尾平野と周辺の中世城館」『比較社会文化』第16巻、九州大学大学院比較社会文化学府、2010年3月、121-264頁、doi:10.15017/17119、hdl:2324/17119、NAID 120002148371、2022年4月11日閲覧。
- ^ “広報とうごう2016年1月号「まちかどア・ラ・カルト」岩崎城と傍示本城をつなぐ”. 東郷町. 2016年5月7日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 渡邊 2020, p. 136.
- ^ “岩崎城の戦い”. 岩崎城 歴史記念館. 2016年5月7日閲覧。
- ^ “長久手古戦場物語”. 長久手市. 2022年3月26日閲覧。
- ^ 川村真二『徳川四天王 : 家康に天下を取らせた男たち』PHP研究所〈PHP文庫 ; か22-3〉、2014年。ISBN 9784569761930。
参考文献
[編集]- 阿部猛・西村圭子 編『戦国人名事典』新人物往来社、1987年3月10日。ISBN 4-404-01412-0。
- 渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』朝日新聞出版〈朝日新書772〉、2020年7月30日。ISBN 978-4-02-295076-5。(電子版あり)
外部リンク
[編集]- 岩崎城の戦い - 岩崎城歴史記念館