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丹羽氏重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
丹羽氏重
時代 安土桃山時代
生誕 永禄12年(1569年[1]
死没 天正12年[1]4月9日1584年5月18日
別名 次郎助[1]、次郎三郎[1]
戒名 常英[1]
墓所 妙仙寺(岩崎)[1]
主君 徳川家康
氏族 一色丹羽氏
父母 父:丹羽氏勝
兄弟 氏次氏重加藤忠景
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岩崎城(2014年2月13日撮影)
「忠義碑」(2014年2月13日撮影)

丹羽 氏重(にわ うじしげ)は、安土桃山時代武将徳川氏家臣尾張国傍示本城主(現愛知県愛知郡東郷町春木市場屋敷に城跡石碑)[2][3]

生涯

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永禄12年(1569年)、丹羽氏勝の子として生まれた[1]

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、兄・丹羽氏次徳川家康に従軍したため、氏次に代わって尾張岩崎城を守備[1]。氏重は痘瘡(天然痘)を患っていたが[1]豊臣秀吉軍・池田恒興らが率いる三河奇襲部隊が城の前を通過すると、「見過ごすは末代までの恥」、「敵の動きを小牧山は未だ知らないであろう。われらが敵を食い止め討死すれば、必ず小幡城には聞こえる。また、小牧にも知らせが届こう。ご恩を奉ずるのは今日の一戦にある」と城兵239人に討死覚悟で一戦を命じた。

池田隊は、小城の岩崎城に構わずに進軍するつもりだったとされる[4]が、岩崎城からの攻撃に応戦した。池田軍の攻城隊を三度に渡り撃退するなどよく戦ったが、新手として現れた森長可軍の銃撃に怯んだ隙に討ち取られた。享年16[1]

氏重の討死を知った榊原康政は「氏重殿以下、ご立派な最後。仇はこの一戦で必ず討ち果たしましょうぞ」と氏次に伝令を送った。康政の伝令に氏重の兄・氏次は、「康政殿のお心遣い痛み入ります。仇は必ず討ち果たします」と応答したという(岩崎城の戦い)。この一戦は、秀吉軍の中入り部隊を足止めし、小牧・長久手の戦いの織田・徳川軍の勝利に貢献したとされる[5][6][7]

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j 阿部・西村 1987, p. 609.
  2. ^ 服部英雄昭和30年代・濃尾平野と周辺の中世城館」『比較社会文化』第16巻、九州大学大学院比較社会文化学府、2010年3月、121-264頁、doi:10.15017/17119hdl:2324/17119NAID 1200021483712022年4月11日閲覧 
  3. ^ 広報とうごう2016年1月号「まちかどア・ラ・カルト」岩崎城と傍示本城をつなぐ”. 東郷町. 2016年5月7日閲覧。[リンク切れ]
  4. ^ 渡邊 2020, p. 136.
  5. ^ 岩崎城の戦い”. 岩崎城 歴史記念館. 2016年5月7日閲覧。
  6. ^ 長久手古戦場物語”. 長久手市. 2022年3月26日閲覧。
  7. ^ 川村真二『徳川四天王 : 家康に天下を取らせた男たち』PHP研究所〈PHP文庫 ; か22-3〉、2014年。ISBN 9784569761930 

参考文献

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外部リンク

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