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丹羽氏勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
丹羽氏勝
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永3年(1523年
死没 慶長2年11月22日1597年12月30日
改名 源六郎/勘助(幼名)[1]→氏勝
別名 通称:右近大夫[1]
戒名 雪庭道加
主君 織田信次信長
氏族 一色丹羽氏
父母 父:丹羽氏識
兄弟 氏勝、傳左衛門、女、女、女、女、勁松院住職、上田近正、女、女、氏常、氏種、氏俊
継室:織田信秀
氏次加藤忠景室のち柘植正俊室、氏重、男子
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丹羽 氏勝(にわ うじかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田氏の家臣。尾張国岩崎城主。三河国伊保城主。

出自

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岩崎丹羽家の祖は一色丹羽氏で、一色氏明が尾張丹羽庄に定着し、地名をとり丹羽氏を称した。なお、同じ織田家臣の丹羽長秀児玉丹羽氏とは血縁関係はない。

略歴

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天文24年(1555年)、守山城主・織田信次の家臣・洲賀才蔵織田信長の弟・秀孝を殺害する事件が起こる。信次は信長の怒りを恐れ逃亡したが、信次の家臣団は守山城に立て篭もり、その中に岩崎丹羽源六(氏勝)の名がある。信次の家老・角田新五の謀反の際にも名が見える[2]。それ以降は信長の直臣となった。

永禄12年(1569年)、伊勢大河内攻めに加わる[3]元亀元年(1570年)6月、近江国姉川の戦いに参戦したのち、同年8月、野田・福島攻城戦の一員になる[4]。同年9月、浅井・朝倉軍挙兵の報に接し坂本に移動。そのまま比叡山の攻防にも加わる[5]天正3年(1575年)、越前攻めに参戦。天正5年(1577年)2月、信長に従って紀伊国雑賀攻めに加わる。

天正8年(1580年)4月24日、信長が鷹狩のために伊庭山に訪れたとき、氏勝の配下が大石を切り出す普請をしていたが、配下は手元が狂い信長の通り道先に大石を落としてしまった。信長は怒り、氏勝の家来一人をその場で手討ちにした[6]

同年8月、林秀貞安藤守就と共に、突然信長より追放される。理由は先年信長に逆心を抱いたためという[7]

その後は各地を転々とするが、信長の死後には次男・氏重の居城である傍示本城に戻り、余生を過ごした。

慶長2年(1597年)、死去。享年75。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b 『丹羽三草家譜』
  2. ^ 太田牛一 『信長公記』 「勘十郎殿、林・柴田御敵の事」
  3. ^ 『信長公記』 「阿坂の城退散の事」
  4. ^ 『信長公記』 「野田福島御陣の事」
  5. ^ 『信長公記』 「志賀御陣の事」
  6. ^ 『信長公記』 「能登・加賀両国、柴田一篇に申し付くるの事」
  7. ^ 『信長公記』 「宇治橋御見物の事」

出典

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