丹羽長政
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 天文18年4月14日(1549年5月11日)[1] |
別名 | 通称:修理亮 |
戒名 | 禅慶 |
主君 | 斯波義統 |
氏族 | 丹羽氏(道隆流、良文流、良岑流) |
父母 | 丹羽忠長[2] |
子 | 長忠、長秀、秀重、女(松原伊賀守室)、女(大津長昌室、後に蜂屋頼隆室)、女(浅見忠実室) |
丹羽 長政(にわ ながまさ)は、戦国時代の武将。尾張守護の斯波氏の家臣。
略歴
[編集]丹羽氏の出自は三説ある。一つ目は藤原姓とするもので、関白藤原道隆の子伊周の次男遠峰の末流とする武蔵国春日井郡児玉党の一族で、忠長が尾張国丹羽郡児玉村に移って丹羽氏を称して、守護の斯波氏に仕えたとする[3][1][4]。二つ目は平姓とするもので、建仁元年(1201年)に梶原景高(良文流)の子豊丸(景親)が尾張丹羽郡羽黒村に逃れてきたときの7人の従者のうちのひとりの丹羽家兼の末裔とするものである[3]。三つ目は桓武天皇の皇子良岑安世の裔孫と称するもので、忠長を二十九代子孫とする良岑姓である[3][4]。
→「丹羽氏」も参照
『丹羽家譜』では、二回改姓したとあり、平姓から藤原姓にして、最後に良岑姓に戻したとある[1]。
跡を継いだ長男の長忠も同じく義統の家臣で、天文23年(1554年)7月12日、守護代織田信友が清洲城を奇襲した清洲合戦で戦死して[3]、無嗣断絶したので[1]、織田信長家臣の次男の長秀が本流となった。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 丹羽氏」『寛政重脩諸家譜. 第4輯』國民圖書、1923年、744頁 。
- “丹羽家譜”. 東京大学史料編纂所. 2022年10月24日閲覧。
- 加藤国光 編『尾張群書系図部集(下)』続群書類従完成会、1997年、676, 686-687頁。ISBN 4797105569。