主基村
すきむら 主基村 | |
---|---|
廃止日 | 1955年3月31日 |
廃止理由 |
新設合併 大山村、吉尾村、主基村 → 長狭町 |
現在の自治体 | 鴨川市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 関東地方 |
都道府県 | 千葉県 |
郡 | 安房郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 17.63 km2 |
総人口 |
2,781人 (国勢調査、1950年) |
隣接自治体 | 安房郡鴨川町、吉尾村、曽呂村、君津郡上総町、三島村 |
主基村役場 | |
所在地 | 千葉県安房郡主基村 |
座標 | 北緯35度07分47秒 東経140度02分18秒 / 北緯35.12981度 東経140.03836度座標: 北緯35度07分47秒 東経140度02分18秒 / 北緯35.12981度 東経140.03836度 |
ウィキプロジェクト |
主基村(すきむら)は、かつて千葉県安房郡に存在した村である。現在の鴨川市の西部に位置している。
1889年(明治22年)、町村制施行に際して由基村(ゆきむら[1])として発足(当初は長狭郡所属)。1915年(大正4年)に主基村と改称し、昭和の大合併に伴い消滅した。村名は、明治天皇の大嘗祭において当地に主基斎田が定められたことに由来する。
地理
[編集]現在の鴨川市西部に位置する。
現在の鴨川市域を、鴨川市成立時およびその後の合併時の町村によって4地区に区分する場合、旧主基村の地域は「長狭地区」の一部に位置付けられている。鴨川市域を町村制施行当時の町村(旧町村)によって12地区に区分する場合は「主基地区」とされ[2]、現在の大字では成川(なりがわ)・北小町(きたこまち)・南小町(みなみこまち)・上小原(かみこばら)・下小原(しもこばら)[2]、および主基西(すきにし)[注釈 1]が含まれる[注釈 2]。
1926年(大正15年)時点の主基村は、東に田原村、西に吉尾村と接し、南は嶺岡山脈を隔てて曽呂村、北は房総山脈を隔てて君津郡亀山村・三島村に接していた[4]:1089。当時は全村を北小町・南小町・成川・上小原・下小原の5区に分けていた[4]:1089。
歴史
[編集]1871年(明治4年)、明治天皇の大嘗祭において、当時花房藩領であった安房国長狭郡北小町村字仲ノ坪に主基斎田が定められた[5][注釈 3]。
1878年(明治11年)、千葉県に郡区町村編制法が施行されると、北小町村・南小町村・成川村の連合(連合戸長役場)と、上小原村・下小原村の連合が成立[1]。1884年(明治17年)に2つの連合が1つに統合された[1]。
1889年(明治22年)、町村制の施行に伴い北小町村・南小町村・成川村・上小原村・下小原村が合併し、由基村として発足した。この際、押切村の一部(北小町村内にあった飛び地)も編入された[1]。由基村の名は、大嘗祭で供米を献じたことを記念したものである[5][注釈 4]。
村役場は当初北小町に置かれたが、数度位置を変更し、1910年(明治43年)に村域の中央に当たる成川に移された[4]:1090。
1915年(大正4年)[注釈 5]に主基村と改称された[5]。
行政区画・自治体沿革
[編集]- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により北小町村、南小町村、成川村、上小原村、下小原村が合併して長狭郡由基村が発足。
- 1897年(明治30年)4月1日 - 長狭郡が安房郡に編入。
- 1915年(大正4年)10月1日 - 由基村が主基村に改称。
- 1955年(昭和30年)3月31日 - 大山村、吉尾村と合併し、長狭町を新設。同日主基村廃止。
交通
[編集]道路
[編集]経済
[編集]1888年(明治21年)に記された分合取調文書によれば、住民はおおむね農業で生計を立てていたとある[1]。
1926年(大正15年)の『安房郡誌』によれば、村は純農村で、土地が肥沃なため農耕に適するという[4]:1091。副業として養蚕・畜産に従事する者が多く、また果樹栽培(柑橘・柿)も盛んで、「小原柿」が知られていた[4]:1091。このほか薪炭も多く生産していた[4]:1091。
畜産業・乳業
[編集]1916年(大正5年)に設立された房総煉乳株式会社(明治乳業の源流)は、地域の中小企業を統合していったが、1918年(大正7年)に南小町に主基工場を新設している[6][7]。
名所・旧跡・祭事
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 鴨川市統計書の「大字別世帯数および人口」には記載されていない[2]が、「選挙人名簿登録者数(投票区別)」の表には市議会議員選挙の第5投票区に含まれる大字として掲出されている。
- ^ 大字の読みは日本郵便の郵便番号検索[3]による。
- ^ 2018年現在、跡地は主基斎田址公園として整備されている[5]。大嘗祭の斎田は平安時代の宇多天皇以来近江国が悠紀、丹波国と備中国が主基を務めることになっており、明治天皇の大嘗祭より全国から選定されることになった。なお、悠紀斎田は甲斐国巨摩郡上石田村(現在の甲府市)に定められた。
- ^ 「新村名撰定ノ事由」として「此村ハ明治四年大嘗祭ニ供米ヲ上リタルノ因故ニ依リ」由基村と名付けたとある[1]。当初主基ではなく由基(悠紀)とされた理由は不明。ただ、原則的には悠紀地方が「東」、主基地方が「西」と考えられており(古代には例外もある)、明治天皇の大嘗祭で選定された斎田の組み合わせはそれから外れていた。
- ^ この年には大正天皇の大嘗祭が行われた。
出典
[編集]- ^ a b c d e f 「由基村」『明治22年千葉県町村分合資料 十八 長狭町村分合取調』、24-27頁 。2018年3月28日閲覧。
- ^ a b c “大字別世帯数および人口” (pdf). 鴨川市統計書 平成28年版. 鴨川市役所. pp. 18-19. 2018年3月28日閲覧。
- ^ 郵便番号検索
- ^ a b c d e f g h i 千葉県安房郡教育会 編『千葉県安房郡誌』千葉県安房郡教育会、1926年 。
- ^ a b c d “主基斎田跡”. 鴨川市役所. 2018年3月28日閲覧。
- ^ 佐藤奨平「日本練乳製造業の経営史的研究 ―安房地域を中心として―」(pdf)『乳の社会文化学術情報』第2巻、乳の社会文化ネットワーク、2015年2月、31-55頁、2020年11月17日閲覧。
- ^ 『日本近代酪農・乳食文化の源流 嶺岡牧』(pdf)千葉県酪農のさと/嶺岡牧研究所 。2018年3月28日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 千葉県安房郡主基村 (12B0020014) - 歴史的行政区域データセットβ版