久保哲
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久保 哲 | |
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生誕 |
1893年4月18日 日本 北海道 |
死没 | 1980年12月17日(87歳没) |
所属組織 | 日本海軍 |
軍歴 | 1918年 - 1945年 |
最終階級 | 海軍中将 |
久保 哲(くぼ さとし[1]、1893年4月18日[1] - 1980年12月17日[1])は、日本の海軍軍人、工学者。最終階級は海軍技術中将[1]。北海道札幌市(当時は札幌区)出身[1]。
生涯
[編集]1918年、東京帝国大学工学部造兵学科卒業[1]。同年7月海軍造兵中技士(翌年中尉に改称)として横須賀鎮守府に勤務し、10月に呉海軍工廠に異動[1]。1920年海軍造兵大尉となり、呉海軍工廠造兵部部員となる[1]。1923年1月造兵監督官としてアメリカ合衆国に出張し、翌年6月帰朝[1]。1925年造兵少佐となり、1926年に佐世保海軍工廠造兵部部員、1929年に同工廠砲熕部部員となる[2]。
1930年2月に艦政本部部員(第1部第1課)となり、同年12月に中佐に昇進[2]。1935年に大佐となり、同年大和型戦艦の砲身・砲架・砲塔基本計画が開始されると、久保は主砲となる46cm(18インチ)砲の砲身部分と砲弾である九一式徹甲弾の設計を担当した[3][4]。
1937年に横須賀海軍工廠造兵部部員兼砲兵学校教官、1941年艦政本部(第1部)出仕となり、同年造兵少将(1942年に技術少将に改称)に昇進[2]。1942年に佐世保海軍工廠造兵部長、1943年1月に呉海軍工廠砲熕部長(8月に砲熕実験部長も兼任)[2]。1945年5月に中将となり、8月に斎尾慶勝の後任として鈴鹿海軍工廠長に就任し、そのまま終戦を迎えた[2]。軍事技術者としては、超大口径砲塔の装備・整備に貢献があった[5]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『日本海軍史 第九巻 将官履歴(上)』海軍歴史保存会、1995年
- 『海軍砲術史』海軍砲術史刊行会、1975年
- 太平洋戦争研究会『悲劇の戦艦 大和と武蔵』PHP、2009年
- 原勝洋『戦艦大和のすべて』インデックス・コミュニケーションズ、2005年