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乙屈利失乙毘可汗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

乙屈利失乙毘可汗(El külüg šad irbis qaγan、呉音:おちくちりしちおちびかがん、漢音:いつくつりしついつひかがん、拼音:Yǐqūlìshīyǐpí kĕhàn、? - 640年)は、西突厥可汗沙鉢羅咥利失可汗の子。乙屈利失乙毘可汗というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明。『旧唐書』では莫賀咄乙毘可汗(ばくかとついつひかがん、バガテュル・イルビ・カガン)と表記。

生涯

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貞観13年(639年)、沙鉢羅咥利失可汗(イシュバラ・テリシュ・カガン)配下の吐屯俟利発(トゥドゥン・イルテベル:官名)が乙毘咄陸可汗(イルビ・テュルク・カガン)と密通し造反したので、沙鉢羅咥利失可汗は抜汗那(フェルガナ)国に逃れたが死去した。国人はその子を立てて乙屈利失乙毘可汗としたが、貞観14年(640年)になって死去した。そこで、弩失畢部の酋帥は沙鉢羅咥利失可汗の弟の伽那設(カーナー・シャド Kānā Šad)の子である薄布特勤(畢賀咄葉護、バガテュル・ヤブグ)を迎え、乙毘沙鉢羅葉護可汗(イルビ・イシュバラ・ヤブグ・カガン)とした。

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参考資料

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