統葉護可汗
統葉護可汗(Ton yabγu qaγan、漢音:とうようこかがん、拼音:Tŏngyèhù kĕhàn、? - 628年)は、西突厥の可汗。射匱可汗の弟。統葉護可汗(トン・ヤブグ・カガン)[1]というのは称号で、姓は阿史那氏、名は不明。
生涯
[編集]中国史書による記述
[編集]618年、射匱可汗が亡くなると、弟の統葉護(トン・ヤブグ)が立って大可汗となる。統葉護可汗は智謀があり、武勇に優れ、遂に北の鉄勒を併合し、西の波斯(サーサーン朝)を拒み、南の罽賓(けいひん)と境を接するまでになり、西域に覇を唱えた。西域の諸国王は頡利発(イリテベル:官名)の官位を授かり、統葉護可汗は吐屯(トゥドゥン:官名)1人を派遣して統括させ、その征賦を監督した。旧烏孫の地に拠り、可汗庭(首都)を石国(チャーシュ:現タシュケント)の北の千泉(ビルキー birkī:現ジャンブール州メルキ)に移した。
武徳2年(619年)2月、聊城で竇建徳が宇文化及を攻めて、これを斬り、その首は突厥の義成公主のもとへ送られた。7月、統葉護可汗と高昌はともに唐に遣使を送って朝貢した。
武徳3年(620年)3月、ふたたび統葉護可汗と高昌王の麴伯雅は唐に遣使を送って朝貢し、突厥は條支の巨鳥(巨卵)・獅子の革を貢納した。
武徳5年(622年)春、東突厥が飢餓に遭って弱っていることを聞いた唐は、統葉護可汗と共に東突厥を討った。その年の冬、統葉護可汗は東可汗の頡利可汗(イリグ・カガン)と和睦した。
武徳9年(626年)、統葉護可汗は唐に遣使を送って請婚した。高祖はこれを許可し、高平王李道立を西突厥に派遣して返事を伝えた。すると統葉護可汗は大喜びし、翌年の貞観元年(627年)、また使者の真珠統俟斤(インチュ・トン・イルキン)を遣わして、万釘宝鈿金帯・馬五千匹を献上した。しかし、東突厥が毎年唐の辺境を侵すので、唐~西突厥間の道が遮断され、結婚は果たされなかった。
時に統葉護可汗は自国が強盛であるのを自負し、支配下の国に恩がなく、部衆は怨みを抱き始め、遂に葛邏禄(カルルク)種の多くがこれに離反した。そうした中、貞観2年(628年)、統葉護可汗は伯父(諸父)の莫賀咄(バガテュル)に殺され、可汗位を簒奪されてしまう。太宗は統葉護可汗の死を聞き、甚だこれを追悼した。
アルメニア史料による記述
[編集]以下の記録は、共に東ローマ帝国側の歴史家(西洋史)であるセベオスとモヴセス・カガンカトヴァツィによる。
当時、アルメニアはen:Marzpanate Armenia期と呼ばれ、東ローマ帝国とサーサーン朝の支配下に分断されていた。
アルメニアの歴史家セベオスの伝えるところによれば、サーサーン朝が東ローマ帝国と戦争になると619年に30年ぶりに西突厥が大ホラサーン(en)のトゥースに攻めこみ第二次ペルソ・テュルク戦争がおこった。初戦で撃退された西突厥軍は援軍を要請し、可汗は30万の援軍を送った。Datoyan王子の守るトゥース要塞を落し、エスファハーンまで進軍して撤退を開始した。バグラトゥニー朝のSmbatは、東ペルシアで兵を集め、撤退途中の西突厥軍の指揮官を殺した。その結果、西突厥軍の統制が失われ、バグラトゥニー軍からさらに大損害を被った。
アルメニアの歴史家モヴセス・カガンカトヴァツィによれば、東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)への介入戦争である第三次ペルソ・テュルク戦争 (627年-629年)において南コーカサスのデルベントを包囲した。次いで東ローマ帝国とハザールの連合軍はトビリシを陥落させた。裏で行なわれていたニネヴェの戦い (627年)が中東の軍事バランスを変えたことによってイスラーム教徒のペルシア征服 (633年-644年)が成功した。
子
[編集]脚注
[編集]- ^ 「統」は「暾」とも写されるテュルク語と思われ、クリャシュトルヌィによると、「暾」は「第一の」「最初の」などを意味するテュルク語「トン ton」「トゥン tun」の音を写したものであるという。(佐口・山田・護 1972,p214)
- ^ 『旧唐書』本紀第一、列伝第百四十四下、『新唐書』列伝百四十下