乙訓王
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乙訓王(おとくにおう/おとくに の おおきみ、生没年不詳)は、奈良時代の皇族。系譜は不明だが、豊野出雲同様に鈴鹿王の系譜に連なるものだとする説がある[1]。官位は従五位下・大膳亮。
経歴
[編集]称徳朝の天平神護2年(766年)12月、西大寺行幸の際に、清原王・気多王・梶島王とともに无位から従五位下に叙せられる。天平神護3年(767年)、奈貴王の後任の正親正に任ぜられるが、神護景雲3年、奈貴王が再度正親正となり、官職を退いている。、
この時のことかどうかは分からず、理由は不明であるが、上述の清原王とともに官位を剥奪されたらしく、光仁朝の宝亀2年(771年)、清原王とともに无位から本位の従五位下に復し、宝亀9年(778年)2月、大膳亮に任ぜられる。この時の大膳大夫は菅生王。翌10年(778年)、三島嶋麻呂に官職を譲ってからの経歴は不明。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 天平神護2年(766年) 12月12日:従五位下
- 天平神護3年(767年)5月14日:正親正
- 神護景雲3年(769年)10月10日:散位?
- 宝亀2年(771年) 3月28日:従五位下(復位)
- 宝亀9年(778年) 2月23日:大膳亮
- 宝亀10年(779年) 11月28日:散位?
脚注
[編集]- ^ 岩波書店『続日本紀4』補注27 - 四七