九里四郎
九里 四郎(くのり しろう、1886年1月1日 - 1953年3月1日)は、日本の洋画家。通称「くり」。海軍主計大監・貴族院議員の南郷茂光の子。海軍少将・南郷次郎、南郷三郎の弟。加賀藩前田家の家老・九里家の養子となる。
経歴
[編集]東京生まれ[1]。学習院初等科から志賀直哉と同級で、のち里見弴、谷崎潤一郎など文人と親しく交わった。1902年、学習院中等科を退学、1910年、東京美術学校西洋画科卒。同級に池部鈞、藤田嗣治、近藤浩一路らがいた[1]。在学中に文展入賞。1911年-1912年ヨーロッパに渡る。出発の際には、友人の志賀直哉をはじめ、柳宗悦、細川護立、郡虎彦、里見弴、児島喜久雄、木下利玄、有島生馬ら14名の白樺派が集まって送別会が行なわれた[2](宗悦の母と四郎の母はともに嘉納治五郎の姉)。パリ滞在中は与謝野鉄幹・晶子らとも交流があった[3]。
帰国後は官展風の自然描写を棄て、強い主観的表現をとるようになり、文展内における二科制設置運動に加わったが当局に容れられず、官展を離れた[1]。1914年二科会創立に際してその鑑賞委員に選ばれたが辞退し、第4回展に「庭」「静物」など4点を出品した[1]。洋画だけでなく日本画もよくし、水墨画展なども開いている[4]。
大阪窯業社長・磯野良吉の娘道子と結婚し、1914-15年には大阪にあり、下阪中の里見の世話をした。1923年、関東大震災で妻と長女が事故死、奈良市に移住し、志賀に奈良移住を勧めた。1928年、志賀を中心に「奈良アーチスト・ベースボール・チーム」が結成され、長男九里正が加わる。
1929年、甲子園に移住、正は甲陽中学校に在学中、全国中等学校優勝野球大会に出場。1932年、東京数寄屋橋にフランス風レストランBRを開業する。1937年、正は慶應義塾大学を卒業し王子製紙に入社したが、1944年に死去。四郎は傷心のため店と自宅を売却し信州飯田に疎開した。
1953年3月1日、飯田市内の飯田病院で胸部疾患のため死去[5]。享年67。
脚注
[編集]- ^ a b c d 九里四郎東京文化財研究所
- ^ 『白樺』Vol.2 No.10 明治44年10月白樺の古径
- ^ 巴里より與謝野寛、與謝野晶子
- ^ 志賀直哉「九里四郎水墨画会 推薦」森琴石.com, 平成23年(3月)
- ^ 『日本美術年鑑』(当研究所刊行)所載物故記事 1953年/昭和28年
参考文献
[編集]- 『志賀直哉全集』第16巻(岩波書店、2001)の生井知子による人名索引