乾宣光
時代 | 戦国時代 - 江戸時代 |
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生誕 | 天文19年(1550年) |
死没 | 慶長17年閏10月3日(1612年11月25日)[1] |
別名 | 通称:七郎左衛門 |
墓所 | 高知県高知市潮江山 |
主君 | 赤松広英(斎村政広)→山内一豊→忠義 |
藩 | 播磨龍野領→但馬竹田領→土佐河中山(高知)藩 |
氏族 | 乾氏 |
父母 | 乾和宜 |
兄弟 | 和信、宜光、和三 |
妻 | 浅見新右衛門娘 |
子 |
樫井蔵之丞室(長女)、小上臈(次女)、 渡辺甚之丞室(三女) |
乾 宜光(いぬい よしみつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。赤松氏、後に山内氏の家臣。山内一豊の影武者同装束六人衆の一人。
出自
[編集]乾氏は、清和源氏土岐氏の支流で、土岐頼貞の四男・道謙の子孫、土岐久右衛門重頼が、美濃国池田郡東野村(現 岐阜県揖斐郡池田町東野)を本拠とし、土岐氏の居城である稲葉山城の北西(乾)の方角であったため名字とした[2]という。家紋は「丸に桔梗」。
生涯
[編集]天文19年(1550年)、美濃池田郡東野村にて織田氏の家臣・乾和宜の二男として生まれる。
天正5年(1577年)、織田氏家臣・羽柴秀吉に従属していた播磨国龍野城主・赤松広英に仕える。秀吉に従い、同10年(1582年)の備中高松城の戦いや同12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに従軍。天正13年(1585年)には、主家・赤松氏の但馬国移封に伴い但馬竹田城下へ移住する。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、主君・広英は石田三成方に与し、丹後国田辺城の細川幽斎を攻めて開城させるが(田辺城の戦い)、関ヶ原の本戦は徳川方の勝利に終わる。窮地に立った広英は徳川方に寝返り、亀井茲矩らの軍勢と共に、鳥取城の宮部長房を攻めるが、城下を焼き討ちした責を負って、同年10月28日(1600年12月3日)に広英は自刃し改易となった。
慶長6年(1601年)、宜光は土佐藩家老となっていた弟・和三を頼り土佐国に来住し、土佐藩主・山内一豊に仕えた。一豊から信任の厚い和三の兄ということで歓迎され、一豊の高知城築城の視察にあたり、身の安全のために仕立てた影武者・同装束六人衆(野中玄蕃・市川大炊・柏原長宅・乾宜光・乾和三)の一人に選ばれている。
慶長17年閏10月3日(1612年11月25日)、高知城下で病死。享年63。墓は土佐土佐郡潮江山(現 高知県高知市潮江山)にある。
宜光には3人の娘がいたが男子に恵まれず、養子を仰せ付けられなかったので、宣光の死後、家禄は土佐藩に返納された。のち、弟・和三の次男、板坂永政の孫娘の婿である正房[3]が乾七郎左衛門の名のみ襲名をしている。
系譜
[編集]補注
[編集]参考文献
[編集]- 『御入国以後御城築之節覚書』
- 『土岐姓乾氏系譜』高知県立歴史民俗資料館蔵
- 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵(高知県立図書館寄託文書)
- 『南路志』武藤到和・武藤平道 共編、1815年(文化12年)