二本杭
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二本杭(にほんぐい)は、京都府南山城村と三重県伊賀市の境界にある石の標柱である。江戸時代に境界画定の記念に建立されたものが発祥で、現存するものは明治時代に建てられた。
概要
[編集]元禄国絵図制作事業において、山城国北大河原村(京都府南山城村)と伊賀国島ケ原村(三重県伊賀市)の間の国境争いのあと、幕府の裁定で決まった国境に建てられ、「従是東伊賀国」「従是西山城国」の文字が刻まれている [1]。
江戸時代には木の杭だったが、1886年(明治19年)に新道が開かれた際に石柱に作り直され、「従是東伊賀国」は新道沿いに作られた[2]。
2003年(平成15年)に三重県からの補助金で「従是西山城国」の隣に「従是東伊賀国」が再現された。
国境争いの経緯
[編集]1697年(元禄10年)、江戸幕府は各大名に国絵図の作成を命じた。伊賀国は藤堂藩、山城国は淀藩が担当した。幕府は国境線を一本に確定することを求め、当事者である住民同士でまず解決することとしたが、この地は両村の住民、田畑、山林が混在状態であり、これまで特に問題視されていなかったため難しかった。藤堂藩と淀藩の間で度々折衝が進められたが双方譲らず、1698年(元禄11年)に幕府の評定所で裁決することとなった。検地の現地調査の結果、大河原村の主張する「かう谷川限」、島ヶ原村が主張する「浅子川限」ともに国境とは認められず、検使により妥協点となる場所が国境として提示された。これを元に裁許絵図が作成され、1700年(元禄13年)に交付された[3][4]。二本杭の北大河原村側にある今山地区は「伊賀山」と呼ばれていたが、これより「今山」と称されるようになった[5]。山城国絵図にも「今山」の記載がある[6]。
脚注
[編集]- ^ 『日本歴史地名大系』「島ヶ原村」の項[要ページ番号]
- ^ 『南山城村村史 本文編』p.317
- ^ 『南山城村村史 本文編』pp.276 - 287
- ^ 『伊賀市史 第2巻』pp.437 − 448
- ^ 『今山区の歩み』p.23
- ^ 山城国図 - 国立国会図書館デジタルコレクション