于品卿
于品卿 | |
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『最新支那要人伝』(1941年) | |
プロフィール | |
出生: | 1886年(清光緒12年)[1] |
死去: |
1945年(民国34年)12月24日 中華民国察哈爾省張家口市 |
出身地: | 清直隷省冀州南宮県 |
職業: | 政治家・実業家 |
各種表記 | |
繁体字: | 于品卿 |
簡体字: | 于品卿 |
拼音: | Yú Pǐnqīng |
ラテン字: | Yü P'ing-ch'ing |
和名表記: | う ひんきょう |
発音転記: | ユー ピンチン |
于 品卿(う ひんきょう)は中華民国の政治家・実業家。親日地方政権である察南自治政府の最高委員。後に蒙古聯合自治政府、蒙古自治邦で副主席に就任した。
事績
[編集]元々は張家口の実業家であり、1924年(民国13年)には張家口商会執行委員となった[2][3]。
1937年(民国26年)8月25日、日本軍が張家口を占拠する。于品卿は日本軍に招聘されて、察哈爾治安維持会委員に任命された[4]。9月4日、察南自治政府が組織され、于は杜運宇と共に最高委員に任命された[5]。11月22日、張家口において、蒙古聯盟自治政府(主席:デムチュクドンロブ(徳王))[6]、察南自治政府(最高委員兼会議代表:于品卿)、晋北自治政府(最高委員兼会議代表:夏恭)の代表者会議が開催された。その結果、蒙彊聯合委員会が成立し、于は同委員会の委員となる[7]。
1939年(民国28年)9月1日、上記3政府が合流して蒙古聯合自治政府が成立、于品卿は同政府の副主席に任命された[8]。1941年(民国30年)6月1日、蒙古聯合自治政府において大規模な機構改革が行われたが、于は引き続き副主席をつとめている(同年8月、蒙古聯合自治政府は「蒙古自治邦」に改称)[9]。于は日本を2度訪問し[10]、また、勲四等・勲三等の旭日章を授与されている[11]。1943年(民国32年)には、満州帝国の康徳帝(愛新覚羅溥儀)から勲二位景雲章を授与されている[12]。
日本敗北後の1945年(民国34年)8月、蒙古自治邦は瓦解した。同月25日、于品卿は張家口に進軍してきた八路軍により逮捕されてしまう[13]。于を裁く特別法廷は12月18日から開始され[13]、各界代表30人による民衆裁判(「公審大会」)での審理となった[11]。同月23日に死刑判決を言い渡され、その際に于は裁判員から感想を問われると、「民族に背き、国家に背いたのだから、罪は万死に値する」と答えたという[11]。判決の翌日、ただちに張家口市内で銃殺刑が執行された。享年60[11][14]。
注
[編集]- ^ 徐主編(2007)、30頁と東亜問題調査会編(1941)、4頁による。完顔(1995)、151頁は1885年とする。
- ^ 徐主編(2007)、30頁。
- ^ 東亜問題調査会編(1941)、4頁。
- ^ 徐主編(2007)、頁。
- ^ 「明朗政権確立す 察南自治政府声明」『読売新聞』昭和12年(1937年)9月5日夕刊、1面。
- ^ この会議には、徳王の代理としてチョトパジャップ(卓王)が出席した。「蒙疆聯合委員会 調印を了す きのう厳粛に挙行」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)11月23日、2面。
- ^ 『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)11月23日、2面。
- ^ 「蒙古聯合自治政府 きょう晴れの誕生 三政権を打って一丸」『東京朝日新聞』昭和14年(1939年)9月1日、2面。
- ^ 「蒙古政府 機構改革」『朝日新聞』昭和16年(1941年)5月31日、2面。
- ^ 1度目は昭和13年(1938年)10月19日から11月20日で、徳王・夏恭と共に来日、昭和天皇に拝謁して靖国神社も参拝した。2度目は昭和15年(1940年)9月8日で、北白川宮永久王の葬儀に参列した。
- ^ a b c d 完顔(1995)、152頁。
- ^ 「汪主席、徳王に勲章御贈進 満州国皇帝陛下」『朝日新聞』昭和18年(1943年)5月8日、1面。
- ^ a b 「前蒙古副主席の裁判」『朝日新聞』1945年12月21日。
- ^ CHN強国網(2009)。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 完顔紹元『大粛奸』上海遠東出版社、1995年。ISBN 7-80613-081-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 「抗戦勝利後八路軍在張家口処決漢奸(組図)(1)」CHN強国網2009年12月4日記事
- 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
察南自治政府
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