五代友喜
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天文9年(1540年) |
死没 | 寛永3年7月27日(1626年9月17日) |
改名 | 勝左衛門、右京亮(通称) |
戒名 | 月松全春居士 |
主君 | 島津義弘→家久 |
藩 | 薩摩鹿児島藩士 |
氏族 | 五代氏 |
父母 | 父:五代助友 |
妻 | 祁答院氏の娘、壱岐助五郎の娘 |
子 | 友泰、友安 |
五代 友喜(ごだい ともよし)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての薩摩国の武将。島津氏の家臣。一部史料には友慶とも。
家系は新田八幡宮社家執印氏の庶家で、初代・惟宗康友の子・康忠が五代院院主職を譲られてより五代氏を称した家である。
友喜は永禄7年(1564年)、島津義弘が日向国飯野城を居城にした際にこれに従った60人のうちの一人で、以後その家老を務めた。また、馬関田(現・宮崎県えびの市西川北付近)地頭でもあった。元亀3年(1572年)5月4日、木崎原の戦いが起こると島津義弘に兵40人を与えられ、白鳥山野間口に伏兵、日向伊東氏の3,000人に及ぶ軍勢を義弘、鎌田政年と共に打ち破り200石を賜る。また、敵の総大将であった伊東祐安を弔う供養塔を建立した。
天正18年(1590年)、義弘の子・島津久保に従い小田原征伐にも参加した。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こった際には、長島(現・鹿児島県長島町)にて肥後国の加藤清正の軍を警戒する番に就き、義弘の帰国後に200石を賜った。また、慶長8年(1603年)に唐船奉行を務め、同10年(1605年)に主君・島津家久の養女・長寿院殿が松平定行の元へ嫁ぐ際はその供をした。
寛永3年(1626年)に病死。薩摩国の隆盛院に葬られた。
参考文献
[編集]- 『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13) (鹿児島県史料刊行委員会)