五代友泰
五代 友泰(ごだい ともやす、永禄11年(1568年)10月 - 寛永19年11月18日(1642年9月12日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての薩摩国の武将。島津氏の家臣。通称は勝左衛門。父は五代友喜。
略歴
[編集]家系は新田八幡宮社家執印氏の庶流で、友泰は島津義弘の家老である五代友喜の嫡男として誕生。天正18年(1590年)、義弘次男の久保が小田原征伐に進軍する際は、騎馬16騎の一人として父と共に同行し、文禄の役の際も久保の供をし朝鮮へ渡海したが、文禄2年(1593年)に久保が朝鮮国唐島にて病死するとその亡骸と共に帰国した。友泰は久保の菩提を弔うために日本全国を行脚し、66部の大乗経を奉納し伏見屋敷へ戻ったところ、久保の実弟である忠恒の朝鮮渡海の供を命じられ、再び朝鮮へ渡った。
慶長3年(1598年)豊臣秀吉の死により日本軍の撤収が決定する。露梁海戦を経て諸将が無事に脱出を果たした一方、島津勢の樺山久高ら500余名が潮流に流され、やむを得ず南海島の南海倭城に籠もったのであるが、これを敵船が取り囲むという事態が起こる。義弘はこの500余名を救出すべく密かに迎えの船を出さんとし、その旨を500余名へ伝えるべく伊勢貞昌・有馬重純・鮫島宗俊、そして友泰を派した。友泰らは敵番船の中を小舟で掻い潜りながら南海島へ向かい、久高にその旨を伝えると無事に帰陣を果たした。また久高ら500余名も、無事に朝鮮興善島へと脱出した。友泰はこの功により100石(五代氏の家伝では200石)を賜っている。
朝鮮より帰国すると、加久藤城の番としてその地頭を仰せ付かった。寛永19年(1642年)に死去。嫡男の友貞が寛永8年(1631年)に死去しており、また友貞には子が無かったため、家督は次男の友光が継いだ。