五島清太郎
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五島 淸太郎(ごとう せいたろう、1867年9月15日(慶応3年8月18日) - 1935年(昭和10年)7月20日)は、日本の動物学者[1]。東京帝国大学教授。寄生虫関連の研究で知られる。歌人五島美代子の父。
経歴
[編集]- 1867年 長門国阿武郡川島村(現・山口県萩市)に長州藩士五島守篤の次男として出生[1]。
- 1882年 16歳で京都同志社英学校に入り新島襄の薫陶を受けた[1]。
- 1884年 9月東京大学予備門(第一高等中学校の前進)に入り、生物学専攻を志す[1]。
- 1887年 帝国大学理科大学動物学科に入学。箕作佳吉、飯島魁の教えを受ける。
- 1890年 フタゴムシに関す卒業論文により帝国大学を卒業する。
- 1893年 千住千代槌(のちに私立晩香女学校創設)と結婚
- 1894年 アメリカ留学、ジョンズ・ホプキンズ大学でブルックス教授に師事、ついでハーバード大学に学ぶ[1]。
- 1895年 理学博士取得
- 1896年 帰国、第一高等学校教授就任[1]。(動物学を講じた。主に腔腸動物、寄生虫の研究にあたる。)
- 1897年 『新編動物初歩』出版
- 1900年 『実験動物学』出版
- 1906年 斎藤茂吉が一高時代の父から薫陶を受け感謝している旨、後年ハガキで受ける。
- 1909年 東京帝国大学教授就任[1]
- 1913年 寄生虫に関する研究業績により帝国学士院賞授与
- 1915年 第一次世界大戦後の委任統治領南洋パラオ群島へ出張。主にタイマイ、コウモリ、二枚貝の研究を行う。
- 1920年 東大理学部長に任ぜられ、大震災復興に尽力
- 1921年 学術研究会会議員、太平洋学術調査委員会委員として尽力
- 1925年 勲二等瑞宝章、従三位に叙せられた。
- 1929年 日本寄生虫学会創立、初代会頭就任。
- 墓所は染井霊園と大阪市北区長柄墓地。
家族
[編集]- 父・五島守篤 - 元萩藩士。維新後、造幣寮出仕。[2]
- 妻・五島千代槌(チヨツチ) - 海軍大佐・千住成貞(1848年生)の長女。明治女学校の第二回の卒業生で、母校で数学を教えたのち、私立晩香女学校を創設し校長を務めた[3]。妹正子の夫に中山岩太。[4][5][6]
- 長女・五島美代子 - 入婿に五島茂。長女ひとみは戦後最初の東大生となったが二年在学中に自死、二女いずみは佐賀出身の大蔵官僚・加茂文治の妻となった。[7][8][9]
- 二女・真
栄典
[編集]- 位階
- 勲章
著書
[編集]- 『ダーウィン氏自伝』(訳)敬業社 1891
- 『中等動物学教科書』金港堂 1893
- 『新編動物初歩』金港堂 1897
- 『新編普通動物学』金港堂 1898
- 『中学動物教科書』金港堂 博物教科統合叢書 1901
- 『実験動物学』金港堂 1900-1903
- 『動物学講義』修学堂・新撰百科全書 1915
- 『実験動物学』合田得輔校訂 中山書店 1949
出典
[編集]- ^ a b c d e f g 濱田美枝子, 岩田真治『祈り : 上皇后・美智子さまと歌人・五島美代子』藤原書店、2021年6月、231頁。ISBN 978-4-86578-307-0。
- ^ 『官員全書大藏省』和泉屋市兵衞, 1872
- ^ 『祈り : 上皇后・美智子さまと歌人・五島美代子』藤原書店、232-233頁。
- ^ 五島清太郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 狩野美智子『野上弥生子とその時代』ゆまに書房、2009年、36頁。ISBN 9784843330623。 NCID BA90388775。全国書誌番号:21621204。
- ^ 『ハイカラに、九十二歳: 写真家中山岩太と生きて』中山正子、河出書房新社, 1987、p15
- ^ 歌人五島美代子研究――文学史における位置付けの試み日本女子大学大学院学生特別研究奨励金 成果報告書、2018年4月3日
- ^ 五島美代子『そらなり : 五島美代子歌集』14号、短歌新聞社〈現代歌人叢書〉、1971年、119, 125頁。 NCID BN11611974。
- ^ 濱田美枝子「五島美代子 昭和戦時下における〈母の歌〉:第二歌集『丘の上』をめぐって」『日本女子大学大学院文学研究科 紀要』第23巻、日本女子大学、2017年、41-58頁、CRID 1050845762499757312、ISSN 1341-2361。
- ^ 『官報』第4092号「敍任及辞令」1926年4月17日。
- ^ 『官報』第1773号「叙任及辞令」1918年7月1日。