コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

中山岩太

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中山 岩太(なかやま いわた、1895年8月3日 - 1949年1月20日)は、戦前の日本新興写真を代表する写真家の1人。福岡県柳川市出身。

略歴

[編集]

福岡県柳川で実業家・中山重行の一人息子として生まれる[1]。小学生のときに家族で上京、仰高小学校京北中学校を経て、1918年東京美術学校臨時写真科を卒業(第1期生)。農商務省の派遣で、アメリカカリフォルニア大学で学ぶ。その後、ニューヨークにて、菊地東陽のスタジオで働いたり、「ラカン・スタジオ」を開設したのち、1926年には渡仏。マン・レイ未来派エンリコ・プランポリーニと知り合う。

1927年に日本に帰国したのちは、芦屋カメラクラブハナヤ勘兵衛ら地元の写真愛好家を集め結成し、欧米での経験を生かして活躍。

1932年には、野島康三木村伊兵衛と雑誌『光画』を創刊。

日本の戦前において、福原信三と並んで、海外の同時代の写真を、自分の身をもって体験した数少ない写真家の1人で、海外の前衛的な写真動向を的確に理解・消化し、帰国後、自作を持って、広く紹介した。フォトグラムフォトモンタージュなど、高度な技術をも駆使して、スタジオ内で作り上げられた華麗な作品群は、単なるヨーロッパ前衛写真物まねにとどまらず、中山独自の美意識を十分に表現したものとなっており、戦前の日本の写真の1つの到達点として、高く評価できる。

家族

[編集]
Mrs.N (1949年、木村伊兵衛撮影、被写体は中山正子)
  • 父・中山重行 - 「中山式消火器」考案者。中山家は柳川藩士で能楽師の家系[2]
  • 母・たま(1959年没) - 実家の小田部家も柳川藩士[2]
  • 妻・中山正子(1896年生) - 千住成貞の娘(庶子)。異母姉に五島千代槌、姪に五島美代子。出生後上馬の農家に預けられ、6歳で永田町山王坂の千住家に引き取られ、小学校で岩太と同級生となる。日本女子大学在学中に婚約し、卒業後結婚して岩太とともに渡米[3]

日本における主要展覧会

[編集]
  • 写真のモダニズム 中山岩太/ザ・コンテンポラリー・アートギャラリー(西武池袋店6F)/1985年
  • 写真のモダニズム2 知られざる中山岩太/ザ・コンテンポラリー・アートギャラリー(西武池袋店6F)/1989年
  • モダンフォトグラフィ 中山岩太展/芦屋市立美術博物館・渋谷区立松濤美術館/1996年~1997年
  • 芦屋カメラクラブ 1930-1942/芦屋市立美術博物館/1998年
  • 甦る中山岩太:モダニズムの光と影/東京都写真美術館/2008年12月13日(土)-2009年2月8日(日)

主な参考文献

[編集]
  • 中山正子『ハイカラに、九十二歳 写真家中山岩太と生きて』河出書房新社、1987年。夫人の回想
  • 「モダンフォトグラフィ 中山岩太展」図録、芦屋市立美術博物館・渋谷区立松濤美術館、1996年
  • 『中山岩太 日本の写真家 第7巻』岩波書店、1998年
  • 「中山岩太―Modern photography」図録、芦屋市立美術博物館編、淡交社、2003年

ギャラリー

[編集]

脚注

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ 長野重一他 編『日本の写真家 7 中山岩太』岩波書店、1998年、68頁。ISBN 4-00-008347-3 
  2. ^ a b 中山正子『ハイカラに、九十二歲: 写真家中山岩太と生きて』河出書房新社、1987年、258頁。ISBN 4-309-00478-4 
  3. ^ 『ハイカラに、九十二歲』p.89

関連項目

[編集]