五条為清
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時代 | 室町時代中期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 嘉吉2年10月29日(1442年12月1日) |
官位 | 正三位・参議 |
主君 | 称光天皇→後花園天皇 |
氏族 | 五条家 |
父母 | 父:五条為守 |
子 | 為賢 |
五条 為清(ごじょう ためきよ)は、室町時代中期の公卿。式部少輔・五条為守の子。官位は正三位・参議。五条家7代当主。
経歴
[編集]応永年間初頭の誕生と推定され、同24年(1417年)の釈奠に正五位下式部少輔として参列したことが『康富記』に記されている。この時は、為清が講師を務める予定であったが、「才学無きため」、上首である講頌を高辻家長と役目を交替したとある。もっとも、これは若年で未経験であったことによるもので、経験を積み重ねることでその能力を高めていき、同32年(1425年)には大内記に任じられ、3年後の称光天皇崩御の際には追号「称光院」を勘申した。
その後、少納言を経て、永享9年(1437年)には従三位大蔵卿に任ぜられ、続いて後花園天皇の侍読となった。この頃には後小松法皇・伏見宮貞成親王からも厚く信任された。特に貞成親王は世尊寺行長から「菅家数輩有りといへども、為清一人儒道の風を残す」という評判[1]を聞き、後に意見を求めるために召し出して[2]以後は中原康富と並んで重用したという。嘉吉元年(1441年)に高辻長郷を越えて左大弁に任ぜられ、翌2年(1442年)には正三位に叙せられるが、前年冬からの病が悪化して同年10月に死去した。死に際して参議に任ぜられた。
系譜
[編集]- 父:五条為守 - 宮内卿五条為綱の子
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 男子:五条為賢
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 橋本政宣 編『公家事典』吉川弘文館、2010年 ISBN 978-4-642-01442-7 P782
- 伊藤慎吾『室町戦国期公家社会と文事』三弥井書店、2012年 ISBN 978-4-8382-3218-5 P54-63・88-93