井上平太
いのうえ へいた 井上 平太 | |
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生誕 |
1848年 (嘉永元年9月17日) 熊本藩 |
死没 | 1933年2月(昭和8年) |
国籍 | 日本 |
職業 |
熊本藩藩士 熊本県警察部警部 剣術家 |
流派 |
雲弘流剣術 伯耆流居合術、日置流道雪派弓術、細川流(武田流)騎射、函三流砲術 |
肩書き | 大日本武徳会剣道教士、居合術範士、弓道範士 |
井上 平太(いのうえ へいた、1848年〈嘉永元年〉9月17日 - 1933年〈昭和8年〉2月)は、熊本藩藩士、武術家。流派は雲弘流剣術、伯耆流居合術、日置流道雪派弓術、細川流(武田流)騎射。称号は大日本武徳会剣道教士、居合術範士、弓道範士。熊本県警部。
生涯
[編集]生い立ち
[編集]高橋の郡奉行(350石)の子として、熊本城下の上林町に生まれる。藩校時習館で学問、武芸を学ぶ。武芸は雲弘流剣術、伯耆流居合術、日置流道雪派弓術、大坪流馬術、武田流騎射、函三流砲術を修行。
戊辰戦争
[編集]1864年(元治元年)、長州征討に野砲隊隊長の父とともに野砲隊副隊長として出征。1868年(慶応4年)、藩主細川護久に従い上洛。戊辰戦争鳥羽・伏見の戦い勃発に伴い、京都御所の警備に出動し、新選組の隊員数人を斬り倒した。その後、家老米田虎之助(元家老・長岡是容次男)が率いる熊本藩兵の一員として東北戦争に転戦。
警察勤務
[編集]廃藩置県後、熊本県飽託郡池上村谷隠に移住し、熊本県警察部の巡査に任官。1885年(明治18年)には陸軍少将乃木希典と親交を結ぶ。1902年(明治35年)11月、明治天皇臨席の陸軍特別大演習が肥後の平野で行われ、平太は天皇の御先乗りを務めた。乃木から馬上杯を贈られ、平太は乃木に村正を贈った。警察には30年間勤務し、警部まで昇任した。違反者はすべて説諭だけで放免し、決して逮捕しない警察官として市民から奇妙な人気があった。
大日本武徳会
[編集]1899年(明治32年)5月、大日本武徳会の武徳祭に馬術演武の指導に招かれたという。1921年(大正10年)5月、武徳祭大演武会剣道高齢者の部に73歳で出場し、神道無念流坂部小郎63歳と対戦する。このとき防具を身に着けず試合に臨み、周囲を驚かせた。素面素小手で試合に出場した心境はついに語らなかったという。1922年(大正11年)、禅僧澤木興道の大徹堂で坐禅を修行した。
称号
[編集]- 1895年(明治28年)、旧熊本藩知事細川護久の命で武田流第33代を継承
- 1899年(明治32年)、大日本武徳会馬術精錬証(細川流騎射)[1]
- 1919年(大正8年)、大日本武徳会剣道精錬証(雲弘流剣道形)[2]
- 1920年(大正9年)、大日本武徳会剣道精錬証(雲弘流)[2]、大日本武徳会居合術精錬証[2]
- 1921年(大正10年)、大日本武徳会剣道教士
- 1927年(昭和2年)5月10日、大日本武徳会弓道範士[3]
- 1929年(昭和4年)5月21日、大日本武徳会居合術範士[3]
脚注
[編集]参考文献
[編集]この節で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
- 堂本昭彦『明治撃剣家 風のごとく発す』、徳間文庫
- 飯島唯一 編『日本武術名家伝』1902年。
- 全日本弓道連盟『財団法人全日本弓道連盟創立四十周年記念誌』1990年。
- 村上晋 編『大正武道家名鑑』1921年 。
- 大日本武徳会本部雑誌部『武道範士教士錬士名鑑. 昭和12年』1937年 。
- 剣道家写真名鑑刊行会編『剣道家写真名鑑』剣道家写真名鑑刊行会、1924年8月25日