井伊直禔
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保12年9月8日(1727年10月22日) |
死没 | 宝暦4年8月29日(1754年10月15日) |
改名 | 金之助(幼名) |
戒名 | 見性院殿観刹了因大居士 |
墓所 | 東京都世田谷区の豪徳寺 |
官位 | 掃部頭、備中守 |
主君 | 徳川家重 |
藩 | 近江彦根藩主 |
氏族 | 井伊氏 |
父母 |
父:井伊直惟、母:内藤氏 養父:井伊直定 |
兄弟 | 直禔、直幸 |
妻 | 正室:酒井忠恭の娘 |
井伊 直禔(いい なおよし)は、近江彦根藩の第11代藩主。第9代藩主井伊直惟の次男。母は内藤氏。直幸の兄。正室は酒井忠恭の娘。
生涯
[編集]享保12年(1727年)9月8日、江戸藩邸にて生まれた。附役は青木平左衛門と犬塚十左衛門が勤め、赤坂御門之内の彦根藩中屋敷に居住した。
叔父で先代藩主の井伊直定は病気療養のため隠居を希望していた。直定には実子の直賢がいたが幼少であったため、直禔が直定の養嗣子として迎えられた。宝暦4年(1754年)6月19日、直定の隠居により、家督を相続した。家中の混乱を憂慮して、当時としては異例ながら家臣の意見を丁寧に聞くことを重視し「法令を守り、倹約を旨として、武芸家芸に邁進すること」「皆の意見を聞くことを厭わないので、何かあれば余か側役に相談するように」「政が間違っていれば意見してほしい。そこから議論していきたい」などと家中に示した書面に残されている。
しかし、こうした矢先に急病に倒れて、直禔は養子として上野館林藩藩主で越智松平家3代目の松平武元を迎えたいと幕府に申し出たが、井伊家の血筋を重視した幕府に却下され、隠居した先代の直定が再勤するよう命じられた。同年8月29日、病気のために急逝した。享年28。
直定が再び藩主となったが、宝暦5年(1755年)、直禔の弟の直幸に家督を譲って隠居した。
経歴
[編集]※日付=旧暦