井口延次郎
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井口延次郎 いぐち のぶじろう | |
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生年月日 | 1882年1月14日 |
出生地 |
日本 三重県三重郡 (現三重県四日市市) |
没年月日 | 1965年6月7日(83歳没) |
出身校 | 小学校卒業 |
所属政党 |
(立憲政友会→) (政友本党→) (立憲政友会→) 日本自由党 |
選挙区 |
(三重県第2選挙区→) 三重県第1選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1924年5月 - 1930年1月21日 |
井口 延次郎(いぐち のぶじろう、1882年(明治15年)1月14日[1] - 1965年(昭和40年)6月7日[2][3])は、明治末から昭和期の実業家・政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]三重県[2]三重郡、のちの四日市町(現四日市市[4][5][6])で、素封家、石材商[4]・井口長右衛門の二男として生まれた[7]。小学校卒業後に上京し[5]、国民英学会で学んだ[2][3][6][7]。
貿易商薩摩商会に入り[2][6][7]下積みから始めて次第に信頼を得て[4]、東京本店、大阪支店、旅順出張所などで勤務した[7]。第一次世界大戦時に井口汽船部、弥彦商会、東京海運 (株) を設立して[2][3][6]、海運業で巨万の富を築いた[4][5]。その他、朝日海陸運輸、東洋耐火煉瓦、東洋電業、明光堂などを経営した[2][3][6]。
政界にも進出し、1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙で三重県第2区から政友本党公認で出馬して初当選し[8]、1928年(昭和3年)2月の第16回総選挙でも再選され[9]、衆議院議員に連続2期在任した[2][3][5][6]。この間、田中義一内閣・総理大臣秘書官、大礼使事務官などを務めた[2][3][5][6]。
国政選挙歴
[編集]- 第14回衆議院議員総選挙(三重県第2区、1920年5月、立憲政友会)次点落選[10]
- 第15回衆議院議員総選挙(三重県第2区、1924年5月、政友本党公認)当選[8]
- 第16回衆議院議員総選挙(三重県第1区、1928年2月、立憲政友会)当選[9]
- 第17回衆議院議員総選挙(三重県第1区、1930年2月、立憲政友会公認)次点落選[11]
- 第22回衆議院議員総選挙(三重県全県区、1946年4月、日本自由党公認)落選[12]
脚注
[編集]- ^ 衆議院『第四十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1924年、13頁。
- ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』33頁。
- ^ a b c d e f 『日本政治史に残る三重県選出国会議員』112頁。
- ^ a b c d 『新代議士名鑑』270頁。
- ^ a b c d e 『東京横浜三重県人評伝』649-650頁。
- ^ a b c d e f g 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』23頁。
- ^ a b c d 『人事興信録 第9版』イ3頁。
- ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 第15回』14頁。
- ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 第16回』171頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第14回』12頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第17回』183頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第22回』1031頁。
参考文献
[編集]- 加藤紫泉『新代議士名鑑』国民教育会、1924年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第14回』衆議院事務局、1924年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第15回』衆議院事務局、1926年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第16回』衆議院事務局、1928年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第17回』衆議院事務局、1930年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第22回』衆議院事務局、1950年。
- 蒲生隆宏編著『東京横浜三重県人評伝』三重県人雑誌社、1930年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 廣新二『日本政治史に残る三重県選出国会議員』廣新二、1985年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。