コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

井田磐楠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
井田 磐楠
生誕 1881年2月24日
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン
死没 (1964-03-29) 1964年3月29日(83歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1901年 - 1919年
最終階級 陸軍少佐
戦闘 日露戦争
*旅順攻囲戦
*奉天会戦
除隊後 貴族院議員
テンプレートを表示

井田 磐楠(いだ いわくす、1881年明治14年)2月24日 - 1964年昭和39年)3月29日)は、日本陸軍軍人男爵貴族院議員、大政翼賛会常任総務。最終階級陸軍少佐。戦後、A級戦犯として逮捕された。

経歴

[編集]

本籍岐阜県井田譲陸軍少将の二男として、父の在勤地ウイーンで生まれる。父の死去に伴い1890年1月18日、男爵を襲爵[1]慶應義塾慶應義塾幼稚舎)、学習院中等科を経て、1901年11月、陸軍士官学校(13期)を卒業、翌年6月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第16連隊付となる。1904年から始まる日露戦争では旅順奉天の戦いに従軍。陸士生徒隊付、野戦砲兵第16連隊付、同連隊中隊長、陸士教官などを歴任し、1919年4月、砲兵少佐に進級し野戦砲兵第13連隊付となり、翌月予備役に編入された。同年9月から1922年まで東京帝国大学文学部聴講生として学ぶ。

1929年(昭和4年)4月27日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選(1945年12月12日まで在任)[2]在郷軍人の政治団体三六倶楽部に関わる。1935年美濃部達吉天皇機関説に対し、菊池武夫らと貴衆両院有志懇談会をつくり機関説排撃を決議し、岡田啓介内閣を批判。以後ファシズム運動に熱を入れ、大政翼賛会発足と同時に常任総務となる。

戦後の1945年(昭和20年)12月2日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し、井田を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)[3]が出され、A級戦犯の容疑で巣鴨拘置所に勾留された。1947年9月、釈放。その後公職追放となる[4]

栄典

[編集]
位階
勲章等

親族

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 『官報』第1965号、明治23年1月20日。
  2. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、38頁、53頁。
  3. ^ 梨本宮・平沼・平田ら五十九人に逮捕命令(昭和20年12月4日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p341 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  4. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、140頁。NDLJP:1276156  公職追放の該当事項は「興亜滅共連盟理事長瑞穂クラブ常務理事翼賛常任総務」。
  5. ^ 『官報』第4321号「叙任及辞令」1941年6月5日。
  6. ^ 『官報』第3208号「叙任及辞令」1937年9月10日。
  7. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

[編集]
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。


日本の爵位
先代
井田譲
男爵
井田(譲)家第2代
1890年 - 1947年
次代
華族制度廃止