京城医学専門学校
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京城医学専門学校 (京城医専) | |
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創立 | 1899年(光武3年 / 明治32年)- 前身の創立 1916年(大正5年)- 医専に改称 |
所在地 | 京城府鍾路区蓮建東128番地[1] |
初代校長 | 池錫永[2] |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
後身校 | |
同窓会 | 有隣会 |
京城医学専門学校 (けいじょういがくせんもんがっこう, 朝鮮語:경성의학전문학교) は、1916年 (大正5年)に日本統治下の朝鮮半島に設立された旧制医学専門学校である。略称「京城医専」。
本項では前身の京城医学校、朝鮮総督府医院附属医学講習所についても記述する。
概要
[編集]- 韓国併合前の1889年(光武3年 / 明治32年)に、大韓帝国政府により創設された「京城医学校」を前身とする。
- 数回の改称を経て、1916年(大正5年)に「京城医学専門学校」となった。
- 1945年(昭和20年)、日本の敗戦により廃止となった。
沿革
[編集]韓国併合前
[編集]- 1899年(光武3年 / 明治32年)3月 - 官立(国立)京城医学校官制が発布され、京城中部寛仁坊勲洞地に「京城医学校」(大韓医学校)が創設される。
- 1902年(光武6年 / 明治35年)7月 - 第1回卒業式を挙行し、19名が卒業。
- 1905年(光武9年 / 明治38年)貧民救済目的で「大韓赤十字病院」が開設される。
- 1906年(光武10年 / 明治39年) 大韓医院の建築着手、明治42年竣工。建築費約三十五萬圓設備費六萬五千圓。[3]
- 1907年
- 1908年(隆熙2年 / 明治41年)
- 1月 - 「大韓医院医育部」に改称。
- 6月 - 入院患者の増加により、それまで医院病棟の一部を校舎としていたが、同院本館階上に移転。
- 1909年(隆熙3年 / 明治42年)
- 1910年(隆熙4年 / 明治43年)
韓国併合後
[編集]- 院長1名、医官9名、教官1名、薬剤官1名、事務官1名、医院10名、書記・教員・調剤手・助手・通訳生24名[7][8]をおくこととした。
- 医科(修業年限:4年)、助産婦科(2年)、看護婦科(1年半)を設置。[9]
- 薬学科を廃止。旧・大韓医院附属医学校の生徒全員(薬学科を除く)を継承。
- 定員は各学年医科75名、助産婦科20名、看護婦科20名。
- 学問の教授は従来通訳を介して行われていたが、この時から国語(日本語)で行われることとなる。
- 1911年(明治44年)
- 1912年
- (明治45年)5月 - 医学講習所卒業生が京城専修学校および官立高等普通学校卒業者と同等以上の資格を有することが認められる。
- (大正元年)10月 - 各科の入学資格、修業年限、官費給費生の義務年限を以下の様に変更。
- 医科 - 入学資格を高等普通学校卒業者とし、将来女子志願者も収容できることとする。官費給費生の義務年限を3年とする。
- 助産婦科 - 入学資格を医学講習所看護婦科の卒業生とし、修業年限を2年から1年に短縮する。官費給費生の義務年限を2年とする。
- 看護婦科 - 入学資格を尋常小学校(6年)卒業生または普通学校(6年)卒業生とする。官費給費生の義務年限を2年とする。
- 官費給費生の比率を減じて、定員の3分の1以下とする。
- 1913年(大正2年)3月 - 助産婦科・看護婦科第1回卒業式を挙行。9名が卒業。
- 1914年(大正3年)
- 3月 - 医科卒業者に医師免許が付与されるようになる。
- 7月 - 助産婦科卒業者に産婆免許が付与されるようになる。
- 1916年(大正5年)
- 1917年(大正6年)
- 1918年(大正7年)
- 1919年(大正8年)
- 1920年(大正9年)
- 1921年(大正10年)
- 4月 - 女子聴講生3名の聴講を許可(女子受け入れの試行)。
- 11月 - 第1・第2講堂が完成。
- 12月 - 組織学実習生講義室1棟が完成。
- 1922年(大正11年)
- 1923年(大正12年)
- 5月 - 内務省より、本科卒業生(特科を除く)は医師法第1条の資格を有する者であると通達される。
- 7月 - 朝鮮総督府道慈恵医院医員依託生の件が認可される。
- 1924年(大正13年)5月 - 文部省告示第290号により、本科卒業生(特科を除く)は高等学校または大学予科卒業生と同等であると指定される。
- 1927年(昭和2年)6月27日 - 朝鮮総督府諸学校官制が改正され、専任校長が置かれることとなり、医学博士の佐藤剛蔵が校長事務取扱を命じられる。
- 1928年(昭和3年)
- 1929年(昭和4年)
- 1930年(昭和5年)6月18日 - 特科を廃止。
- 1931年(昭和6年)10月2日 - 朝鮮総督府道慈恵医院医員依託生制度を廃止。
- 1932年(昭和7年)5月10日 - 附属医院外来診察所(鉄筋コンクリート造3階建て)の一部が完成。
- 1933年(昭和8年)
- 1934年(昭和9年)
- 1935年(昭和10年)7月5日 - 生徒監を生徒主事に改称。
- 1937年(昭和12年)3月 - 朝鮮教育令の改正により、翌4月に京城医学専門学校規程を改定。
- 1938年(昭和13年)11月12日 - 附属医院に結核病棟と内科的講堂が完成。
- 1940年(昭和15年)4月1日 - 京城医学専門学校規程を改正し、第1条に本校教育の目的を明示。
日本統治の終了後
[編集]教育綱領
[編集]1916年(大正5年)の「京城医学専門学校」発足時に制定。5条からなる。
- 本項は朝鮮教育令に基づき、医学に関する専門教育を為す所にして、疾病診療の智識技能を具備した医師を養成するを本旨とする。
- 医師はその司掌する所貴重なる人名に在るを以て医術の進歩発達如何は啻(ただ)に個人の禍福に関係するのみならず、国民の元気を左右し、国運発展に影響するところ、頗(すこぶ)る大なるものあり故に生徒をしてその責任の重大なることを自覚し、以て国家の期待する所に副(そ)わんことを期せしむべし。
- およそ医師は親切と同情とをもって患者に接し、綿密周到なる注意をもって済生の仁術を全うするとともに職務上黙秘すべき事項については之が秘密を厳守することは最も必要なることに属すゆえに平素意を訓育に用い、生徒をして人格の修養に努めしめ、将来医師たるの品位を保ち、その本分を尽くさしめんことを期すべし。
- 教授はその基礎医学と臨床医学たるを間はす、徒(いたずら)に高遠なる学理に馳することなく簡明を旨とし、実地に有用なる日新の知識技能を授くるとともに不断の研鑚を重ぬる習慣を養成すべし。
- 専門学校は高等の学術技芸を教授するところなり故に生徒をして克(よ)くその本分を守り、言行を慎み、恪勤自重せしめ、もって一般国民の儀表たらしめんことを期すべし。
校章・校歌
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- 校章
- 医学を表す英語のMedicineの頭文字M(金色)を背景にして、医の旧字体「醫」(金色)を載せて羽ばたく鳩の絵(銀色)を置いている[10]。
- 校歌
- 1922年(大正11年)12月に制定された。作詞者・作曲者・歌詞の詳細は不詳。
歴代校長
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- 京城医学校
- 初代 - 池錫永[2](1899年(明治32年)3月 - 1907年(明治40年)3月までの8年間)
- 大韓医院教育部・大韓医院医育部・大韓医院附属医学校
- 第2代 - 佐藤進(1907年(明治40年)11月 - 1909年(明治42年)2月までの1年3ヶ月間)- (兼)大韓医院長
- 第3代 - 菊池常三郎(1909年(明治42年)7月 - 1910年(明治43年)8月までの1年1ヶ月間)- (兼)大韓医院長
- 朝鮮総督府医院附属医学講習所・京城医学専門学校
- 第4代 - 藤田嗣章[11](1910年(明治43年)8月 - 1914年(大正3年)7月までの3年11ヶ月間)- (兼)朝鮮総督府医院長・陸軍軍医総監
- 朝鮮総督府医院の初代医院長。のちに森鴎外の後任として陸軍軍医総監を兼務。
- 第5代 - 芳賀榮次郎(1914年(大正3年)7月 - 1920年(大正9年)10月までの6年3ヶ月間)- (兼)朝鮮総督府医院長・陸軍軍医総監
- 第6代 - 志賀潔(1920年(大正9年)10月 - 1927年(昭和2年)6月までの6年8ヶ月間)- (兼)朝鮮総督府医院長・陸軍軍医総監
- のちの京城帝国大学総長。北里芝三郎門下の細菌学者。細菌学の権威で赤痢の病原菌を発見する。
- 第7代 - 佐藤剛蔵(1927年(昭和2年)6月 - )- 専任校長
- 1906年京都帝国大学医科大学卒 1907年6月7日、財団法人同仁会より派遣され平壌の同仁会病院医院長を務める 1910年9月21日、大韓医院嘱託医務 同10月、朝鮮総督府医院教官兼医育課長 1916年4月1日、京城医学専門学校教授 欧米出張後の1921年6月21日、医学博士の学位を授与 1925年12月、京城帝国大学創設に関する事務の嘱託拝命 1926年4月1日、京城帝国大学教授兼京城医学専門学校教授 1927年6月28日、京城医学専門学校長兼京城帝国大学教授。[12]
- 剛蔵氏は80歳(1960年5月13日)で亡くなっているが1956年5月、喜寿を記念して『朝鮮醫育史』を刊行している。そこでは38年間の朝鮮半島で医学教育に関わった経験[13]を記しており、元々は同仁会から派遣された医師の一人であったが教育に熱心で終戦まで朝鮮人の医育環境の充実に専念[14]した。生徒の信頼篤く引揚げの際は京城から釜山まで教え子らが匿い連携して守り帰国させたという。教え子に朱軫淳(韓国学術院副会長、高麗大学名誉教授、医学博士)など。
教授
[編集]- 大韓医院教育部・大韓医院医育部・大韓医院附属医学校
内田徒志 内田立身(香川県赤十字血液センター元所長、医学博士)の父
- 1905年、佐々木四方志(大韓医院衛生部長)に誘われ渡韓し大韓医院の設立に関わり1911年まで在任。伊勢新聞に「退韓記」を寄せ大韓医院設立当時を記している。「この京城の一隅において、洋館巍峨として、雲にそびゆる大韓医院の隠れたる歴史と没せられたる功績とは、爾後、何人の口によって伝えられるであろうか。」
- 朝鮮総督府医院附属医学講習所・京城医学専門学校
水津信治
- 朝鮮総督府の技師で精神科医。1924年まで精神病学の講義を担当。[15]
久保喜代二
- 水津信治の後任。のち1926年に設立された京城帝国大学医学部にて精神科教授となる。
同窓会・校友会
[編集]- 「有隣会」(ゆうりんかい)と称していた。
- 部活動には以下のものがあった。(1940年(昭和15年)時点で19部)
朝鮮総督府医院附属医学講習所の学則
[編集]- 学期制
- 医科・助産婦科は前後期制(年42週)、看護婦科は3学期制(全63週)。
- 授業時間
- 毎週約30時間で日曜と祝日を休みとし、長期休業は春(4/1〜7)夏(8/1〜31)冬(12/29〜翌1/4)。
- 授業料
- 無料[16]
- 入試資格
- 朝鮮人の男子(医科)および女子(助産婦科、看護婦科)で年齢17歳以上25才以下の入試合格者。
- 高等学校第1学年修了者は医科試験免除。普通学校4学年修了者は助産婦科試験免除、普通学校3学年修了者は看護婦科試験免除。
- 入試内容
- 医科〜漢文(四書講読、作文)、算術(四則分数)、国語(講読は尋常小学校読本九、十と翻訳および会話) の他、必要に応じて理科。
- 助産婦科〜国語(講読は普通学校学徒用日語読本7、8と会話)
- 看護婦科〜国語(講読は普通学校学徒用日語読本5、6と会話)
- 試験と卒業
- 学期末と学年末および卒業試験(学期末試験は学年末試験を兼ね、卒業試験は学年末試験を兼ねる)
- 各試験100点満点で40点以上かつ平均60点以上で合格。医科を卒業したものは医学進士の称号を得る。
脚注
[編集]- ^ 職員録(昭和18年7月1日現在)(1943年(昭和18年)9月30日, 内閣印刷局発行課) - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー p.200(コマ番号148)
- ^ a b c 韓国語の読みは「チ・ソクヨン」、「チ・スクヨン」。
- ^ 「韓国唯一の国立病院にして明治丗九年京城市の東北高燥の地を卜して建築に着手」統監府:韓国写真帖 第三十三大韓医院
- ^ 「京城の一偉観たり」統監府:韓国写真帖 第三十三大韓医院
- ^ 「職員は過半本邦人にして諸般の設備良く整ふ又付属医学校あり韓人の医師を養成す」統監府:韓国写真帖 第三十三大韓医院
- ^ (京城)朝鮮総督府医院 - 東北芸術工科大学東北文化研究センター「アーカイブズ」ウェブサイト
- ^ 明治44年職員録では書記4名(うち書記助手1)、教員1名、調剤手4名(うち調剤助手1)、助手12名、通訳生1名の22名
- ^ 朝鮮総督府及所属官署職員録. 明治44年11月調査 p144
- ^ 官報8301号p633 1911年02月25日
- ^ 徽章資料館 - キシヨウ堂ウェブサイト
- ^ 「ふじた つぐあきら」。洋画家藤田嗣治の父。
- ^ 佐藤剛蔵:『朝鮮醫育史』1956
- ^ 佐藤「朝鮮医育史といっても私の朝鮮医育に関する追想追憶である」
- ^ 終戦までに京城医専は1100人の韓国人医師を輩出している。京城大学医学部は250人、セブランス医専は1000人と京城医専は突出していた。
- ^ 風祭元「太平洋戦争終結以前の朝鮮半島の精神医学」
- ^ 「授業料ハ當分ノ内之ヲ徴収セス」官報8301号p634 1911年02月25日
関連項目
[編集]参考資料
[編集]- 「朝鮮総督府京城医学専門学校一覧」(1940年(昭和15年)11月10日, 京城医学専門学校) - 国立国会図書館近代デジタルライブラリーウェブサイト
- 「京城医学専門学校(大正5年) 」- 九州大学松原研究室ウェブサイト