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仁木義尹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
仁木義尹
時代 室町時代-南北朝時代
生誕 不詳
死没 不詳
幕府 室町幕府
主君 足利義詮足利義満
氏族 仁木氏
父母 仁木頼章
養父:仁木頼夏
兄弟 義兄:仁木頼夏
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仁木 義尹 (にき よしただ)は、南北朝時代武将

生涯

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正平15年・延文5年(1360年)に仁木義長が政争に敗れて没落したあとも幕政に関与し、同年には、丹波丹後守護に補佐された。[1]

正平16年・康安元年(1361年細川清氏楠木正義を中心とした南朝軍がに乱入し、足利義詮後光厳天皇を追い落とし京制圧を遂げた。義尹も将軍義詮と共に戦っているが、敗れている。丹波に撤退し、近江で軍勢を立て直し、義詮とともに南朝軍を破った。[1][2]

正平17年・貞治1年(1362年)山陰地方を制圧した南朝軍山名時氏が伯耆で兵を挙げ、丹波に攻め寄せてきた。義尹はこれを迎撃し、時氏を破った。[1]

正平23年・応安元年(1368年)、将軍義詮の死去により、南朝方は沸き立ち、摂津河内で楠木氏一党が、越後で新田義宗脇屋義治が、安芸で足利直冬が、伊勢で北畠教具が、蜂起した。伊予国でも蜂起した南朝方の河野通尭と戦う為、伊予に赴く。だが義尹は河野軍に敗れ、讃岐に撤退した後に、京へと戻った。[1][2]

建徳1年・応安3年(1370年)室町幕府に引付衆に任ぜられた。その後管領細川氏と対立し、天授4年・永和4年(1378)に領国丹波を細川頼之に急襲され、行方がわからなくなった。[1]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e 水野大樹『室町時代人物事典』有限会社バウンド/新紀元編集部、2014年5月6日、445頁。ISBN 9784775311790 
  2. ^ a b 仁木義尹”. コトバンク. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 講談社. 2022年6月8日閲覧。