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北畠教具

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
北畠教具
時代 室町時代中期
生誕 応永30年(1423年
死没 文明3年3月23日1471年4月13日
官位 正二位、権大納言
氏族 村上源氏北畠家
父母 父:北畠満雅
政具(政郷)大河内親郷
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北畠 教具(きたばたけ のりとも)は、室町時代中期の公卿権大納言正二位。伊勢国司北畠家の第4代当主で、伊勢国の守護大名でもある。北畠満雅の子。

生涯

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父が戦死した時は7歳とまだ幼少であった為、叔父の大河内顕雅が政務を代行していた[要出典]

嘉吉元年(1441年)、19歳で伊勢国司となり、将軍の足利義教から一字を賜って教具と名乗った[要出典]。同年、義教が暗殺される事件(嘉吉の乱)が起こると、その首謀者の一人で伊勢国に逃亡してきた赤松教康[1]の保護を拒否して自殺に追い込み、幕府に恭順を誓った。

文安5年(1448年)に長野氏と所領を巡り合戦を行っている[要出典]

宝徳3年(1451年)に正四位参議に叙任。翌年正月には従三位に叙任。享徳2年(1453年)に正三位に叙任。康正2年(1456年)3月に権中納言に叙任。長禄2年(1458年)には従二位に叙任する[要出典]

応仁元年(1467年)の応仁の乱では北畠家は東軍についたが、教具は足利義政から上洛を許されず大和国長谷寺にいて洛中の戦闘には参加していない[要出典]。同年8月に在京していた一族の木造教親を通じて伊勢に亡命してきた足利義視を保護するため、9月6日に長谷寺を離れ、伊勢に御所を造っている[2]

応仁2年(1468年)2月、伊勢守護は西軍の一色義直であったため、東軍の土岐政康が新たに伊勢守護に任じられて伊勢に攻め込んだ。同年4月、上洛の勅書が届いたため、足利義視は丹生を発った。義視と教具が平尾に着くと伊勢、伊賀の国人が尽く伺候したが、土岐政康は背いたため、林崎・若松・柳・楠原の諸城を攻め落としている[2]文明元年(1469年)8月に権大納言に叙任。

文明2年(1470年)には北上し、三重郡朝明郡にも進出した[要出典]

文明3年(1471年)3月23日、伊勢で死去した。享年49。死因は腫物であったようである[要出典]。跡を嫡男の政具が継いだ。

脚注

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  1. ^ 大河内顕雅の娘(教具の従妹)を正室としており、縁戚関係にあった。教具は教康を3日ほど城内に滞在させたが、やがて厄介者として馬場城に身柄を移して(『赤松盛衰記』より)、匿うことを拒絶。これに絶望した教康は同年9月28日に同地にて自害。同じく応永30年(1423年)生まれの19歳であった。
  2. ^ a b 『応仁記』