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今里準太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

今里 準太郎(凖太郎[1]、いまざと[1] じゅんたろう、1886年明治19年)11月15日[2][3][4][5] - 1976年昭和51年)12月28日[1])は、明治末から昭和期の右翼活動家、実業家政治家衆議院議員

経歴

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長崎県[1][3]東彼杵郡萱瀬村[4][5][4][6](現大村市)で、今里和平の三男として生まれ[4][5]、1907年(明治40年[注釈 1])6月、家督を相続した[5]。大村中学校(現長崎県立大村高等学校)を経て[4]、1907年、早稲田大学大学部政治経済学科を卒業した[1][3][4][5][6]。兵役に就き陸軍三等主計となる[1][3][4][6]

北海道に渡り小樽新聞の記者となる[1][4][6][7]。養狐業[7]、鉄工機械商・今里商会[4]の経営などを行い、その後、樺太で木材売買業を営み成功した[7]

1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙に長崎県第3区から無所属で出馬して当選し[3][4][8]、衆議院議員に1期在任した[1][3][6]。その後、1928年(昭和3年)2月の第16回総選挙に長崎県第2区から立憲政友会所属で立候補したが最下位で落選した[9]

1925年(大正14年)全亜細亜協会を創立し専務理事に就任[1][3][4][6]。その他、皇道会副会長、みそぎ会会長、新華総会会長などを務め、日中間を往復して大陸工作に従事した[1][3][4][6]

戦後、兄弟社社長、アジア同志会会長を務めた[1][3]

著作

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  • 『北海道会史』今里準太郎、1918年[4]
  • 今里他編纂『満洲の家理』泰山房、1933年。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『大衆人事録 昭和3年版』イ127頁では明治42年。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』77頁。
  2. ^ 衆議院『第四十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1924年、7頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『最新右翼辞典』45頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 『大衆人事録 昭和3年版』イ126-127頁。
  5. ^ a b c d e 『長崎県人事興信録 1935版』32頁。
  6. ^ a b c d e f g 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』57頁。
  7. ^ a b c 『新代議士名鑑』435頁。
  8. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第15回』8頁。
  9. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第16回』68頁。

参考文献

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  • 加藤紫泉『新代議士名鑑』国民教育会、1924年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第15回』衆議院事務局、1926年。
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 昭和3年版』帝国秘密探偵社、1927年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第16回』衆議院事務局、1928年。
  • 長崎日日新聞社編『長崎県人事興信録 1935版』長崎日日新聞社、1934年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 堀幸雄『最新右翼辞典』柏書房、2006年。