仙波兵庫
表示
仙波 兵庫(せんば ひょうご、1860年3月24日(万延元年3月3日[1])- 1940年(昭和15年)9月23日[1][2])は、明治から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]常陸国茨城郡犬田村(笠間県茨城郡犬田村、茨城県[2]茨城郡犬田村、西茨城郡犬田村、西那珂村[1][3]大字犬田[4]、岩瀬町犬田[1]を経て現桜川市犬田)で生まれた[4]。漢学を修め[2][3]、農業を営む[1][3]。
若くして自由民権運動に加わり[1]、1879年(明治12年)に犬田村で政談演説会を催し[5]1880年(明治13年)私塾「研光社」を設立して民権思想を伝えた[6]。自由党の結成に参画[6]。1884年(明治17年)加波山事件に連座して検挙され、約二年間投獄された[1][4]。
大阪事件後は自由民権運動への熱意を失い、[5]実業界で活動[6]。仙波組を組織して組長となり水戸鉄道の敷設に従事[1][6]。その他、岩瀬物産運輸副社長、金井運送取締役、東京肥料取締役、常陸石材工業社長、日本石材社長、常総鉄道専務委員などを務めた[1][2][3]。
政界では、学務委員、西那珂村会議員、西茨城郡会議員などに在任[1][2][3]。1887年(明治20年)茨城県会議員に選出され1892年(明治25年)まで在任し[1]、同常置委員、徴兵参事員なども務めた[2][3]。
1903年(明治36年)3月の第8回衆議院議員総選挙(茨城県郡部、立憲政友会)で当選し[7]、衆議院議員に1期在任した[2][3][6]。
国政選挙歴
[編集]- 第1回衆議院議員総選挙(茨城県第3区、1890年7月、自由党)落選[8]
- 第5回衆議院議員総選挙(茨城県第3区、1898年3月、自由党)次点落選[9]
- 第6回衆議院議員総選挙(茨城県第3区、1898年8月、憲政党)次点落選[9]
- 第7回衆議院議員総選挙(茨城県郡部、1902年8月、立憲政友会)落選[7]
- 第8回衆議院議員総選挙(茨城県郡部、1903年3月、立憲政友会)当選[7]
- 第9回衆議院議員総選挙(茨城県郡部、1904年3月、自由党)落選[7]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 『茨城県議会史 第1巻』1930-1931頁。
- ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆院議員名鑑』346頁。
- ^ a b c d e f g 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』247頁。
- ^ a b c 『茨城人物評伝』160-162頁。
- ^ a b 『茨城県大百科事典』茨城新聞社、1981年11月、618頁 。
- ^ a b c d e 『茨城歴史人物小事典』217頁。
- ^ a b c d 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』12頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』21頁。
- ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』82頁。