仲町 (館林市)
仲町 | |
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北緯36度14分53.53秒 東経139度31分48.83秒 / 北緯36.2482028度 東経139.5302306度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 群馬県 |
市町村 | 館林市 |
面積 | |
• 合計 | 0.15 km2 |
人口 | |
• 合計 | 451人 |
• 密度 | 3,000人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
374-0029[2] |
市外局番 | 0276[3] |
ナンバープレート | 群馬 |
仲町(なかまち)は、群馬県館林市の町名。郵便番号は374-0029[2]。面積は0.15km2[4]。
地理
[編集]館林市街地の中央に位置し[5]、東は本町一丁目、南は本町二丁目、北は西本町、西は栄町に接している[4]。
歴史
[編集]1969年(昭和44年)11月1日に第二次住居表示が実施され、大字館林字本紺屋町・新紺屋町・材木町・竪町と、谷越町・目車町、鞘町・石町の各一部が合併し仲町となった[5]。
旧館林城下町名の歴史
[編集]本紺屋町
[編集]古くは紺屋町と呼ばれていたが、西部に新紺屋町ができてからは本紺屋町と呼ばれるようになった[5]。染色業者の居住地域で、本新両紺屋町の境には堀へつながる用水路があり、橋がかかっていたという[5]。
延宝2年(1764年)の「館林城下町図」に町名が見える[6]。『館林記』に残る記録では、萱葺家が59軒、男105人、女110人、馬15匹であった[7]。宝永7年(1710年)頃編集とみなされている「万聞書(よろずききがき、山田文書)」では、家屋56軒中寺3軒とされている[7]。弘化3年(1846年)の「町方引渡帳(『館林藩史料』)」では、町の長さ284m程度(2町36間余)、家数42軒、その他に町役人無役屋敷、定使無役屋敷が各1軒あった[7]。1889年(明治22年)の『邑楽郡町村誌材料』では町域2町6反余り[7]。
新紺屋町
[編集]本紺屋町の西部に後に発達し、新紺屋町と呼ぶようになった[5]。
延宝2年(1764年)の「館林城下町図」に町名が見える[6]。『館林記』に残る記録では、萱葺家が36軒、男56人、女53人、馬5匹であった[7]。宝永7年(1710年)頃編集とみなされている「万聞書」では、家屋50軒中山伏1軒とされている[7]。弘化3年(1846年)の「町方引渡帳」では、町の長さ271m程度(2町29間余)、家数24軒[7]。1889年(明治22年)の『邑楽郡町村誌材料』では町域2町余り[7]。
材木町
[編集]材木問屋や材木商の居住地であったと言われる[8]。
延宝2年(1764年)の「館林城下町図」に町名が見える[8]。『館林記』に残る記録では、萱葺家が56軒、男110人、女85人、馬8匹であった[8]。「館林町先規之次第覚書」によると、延宝9年(1771年)には町内に木挽職4人が住み、同年の職役は40人と定められていた[8]。弘化3年(1846年)の「町方引渡帳」では、町の長さ256m程度(2町21間余)、家数38軒、その他に町役人無役屋敷、定使無役屋敷が各1軒あった[8]。嘉永元年(1848年)の「館林城下地図」では家数49軒[8]。1889年(明治22年)の『邑楽郡町村誌材料』では町域3町1反余り[8]。
竪町
[編集]谷越町
[編集]本町の谷越町項を参照。
目車町
[編集]鞘町
[編集]石町
[編集]本町の石町項を参照。
人口
[編集]2022年(令和4年)4月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
町丁 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
栄町 | 229世帯 | 451人 |
小・中学校の学区
[編集]市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[9][10]。
番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|
全域 | 館林市立第一小学校 | 館林市立第一中学校 |
行政
[編集]- 館林簡易裁判所
- 館林税務署
- 群馬県東部県民局 館林行政県税事務所
- 館林市 保健福祉センター
- 館林市 青少年センター
- 館林市 シルバー人材センター
- 館林市民センター分室
- 本紺屋会館
- 仲町北区会館
経済
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- 店・企業
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地域
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健康
[編集]- 医療機関
- 石川歯科クリニツク
- 川田耳鼻咽喉科医院
相談
[編集]- 藤井弦建築設計事務所
- 石塚泉会計事務所
- 蛭間真二司法書士事務所
施設
[編集]- 記念館
- 毛塚記念館
- 企業博物館
- 宗教
- 観性寺 - 材木町域に存在[8]。宝塔山慈眼院と号し、真言宗豊山派[8]。本尊は大日如来[8]。法印弘喜が天正4年(1576年)に開基し、元は観音寺と称した[8]。1908年(明治41年)に北東にあった鞘町の自性院(本尊不動明王)を合併し、1910年(明治43年)観性寺と改称した[8]。
- 常光寺
- 千眼寺
- 野木神社 - 本紺屋町鎮守[7]。1910年(明治43年)に長良神社に合祀されたが、地域の方々により後に旧地に再奉斎された[7]。
- 太神宮 - 新紺屋町鎮守[7]。1910年(明治43年)に長良神社に合祀されたが、地域の方々により後に旧地に再奉斎された[7]。
名所・旧跡
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交通
[編集]鉄道
[編集]バス
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道路
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出身・ゆかりのある人物
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脚注
[編集]参考文献
[編集]- 川島維知『館林地名散歩』聚海書林、1990年。
- “館林市の人口と世帯数 大字別人口及び世帯数一覧表”. 館林市役所 (2022年4月1日). 2022年7月8日閲覧。
- “郵便番号”. 日本郵便. 2020年6月16日閲覧。
- “市外局番の一覧”. 総務省. 2020年6月16日閲覧。
- “群馬県館林市仲町 (102071080)”. 国勢調査町丁・字等別境界データセット. 2022年7月8日閲覧。
- “館林市立小学校通学区域設定規則”. 館林市 (2020年6月16日). 2020年6月15日閲覧。
- “館林市立中学校通学区域設定規則”. 館林市 (2020年6月16日). 2020年6月16日閲覧。
- 全国営業便覧発行所 (1904年). “『群馬県営業便覧 附・繁昌記』”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2018年1月29日閲覧。