任祥
任 祥(じん しょう、494年 - 538年)は、北魏末から東魏にかけての官僚・軍人。字は延慶[1][2]。本貫は広寧郡[3][4][5][6]。
経歴
[編集]任標と太原王氏のあいだの子として生まれた[7]。伯父の任桃が雲中軍将となると、任祥も任桃に従って雲中に住んだ。六鎮の乱が起こると、葛栄に従った。葛栄が敗れると、北魏に降り、鎮遠将軍・広寧郡太守に任じられ、西河県公の爵位を受けた[3][4][8]。
普泰元年(531年)、高歓が反爾朱氏の兵を起こすと、任祥はこれに従い、魏郡公に封ぜられた。中興元年(同年)、光禄大夫に累進した。太昌元年(532年)、尚書左僕射に転じ、開府儀同三司に進んだ[3][4][9]。
永熙3年(534年)、孝武帝が関中に入ると、任祥は持節・南道大都督となって荊蛮を討った。天平元年(同年)、東魏が建国されると、侍中に任じられた。天平3年(536年)、范陽の盧仲延が河北の流人を率いて陽夏で叛くと、西兗州の民の田龍が人々を集めて乱に呼応したので、任祥は大都督・東道軍司として、都督の元整・叱列陀らを率いてこれを討った。まもなく行台僕射となり、驃騎大将軍・徐州刺史に任じられた。南朝梁が元慶和と諸将を派遣して国境を侵すと、任祥は南朝梁の仁州刺史の黄道始を北済陰で破り、また梁儁を単父で破って、捕虜1万人を斬った。再び侍中となった[10][4][9]。
天平4年(537年)、潁州長史の賀若徽が潁州刺史の田迅を捕らえて西魏に降ると、任祥は豫州刺史の堯雄らを率いてこれを討った。西魏が怡峯を派遣して来援すると、任祥らは敗れ、北豫州に撤退した。行台の侯景や司徒の高昂らと合流して、ともに潁川を攻め、これを落とした[11][12][9]。元象元年(538年)8月3日、鄴で死去した[7]。享年は45。使持節・太保・太尉公・録尚書事・都督冀定瀛幽安五州諸軍事・冀州刺史の位を追贈された[11][13][9]。
子の任冑が後を嗣いだが、西魏に通じて乱をはかり、武定3年(545年)に子弟とともに処刑された[14][13][9]。
脚注
[編集]- ^ 王 2013, pp. 87–88.
- ^ 『北斉書』任延敬伝では字のことは見えず、『北史』任祥伝では字を延敬とする。墓誌は字を延慶としており、王連龍は『北史』の誤りとみなしている。
- ^ a b c 氣賀澤 2021, p. 254.
- ^ a b c d 北斉書 1972, p. 251.
- ^ 北史 1974, p. 1906.
- ^ 『北斉書』任延敬伝および『北史』任祥伝による。墓誌は西河郡隰城県の人とする。
- ^ a b 王 2013, p. 87.
- ^ 北史 1974, p. 1906-1907.
- ^ a b c d e 北史 1974, p. 1907.
- ^ 氣賀澤 2021, pp. 254–255.
- ^ a b 氣賀澤 2021, p. 255.
- ^ 北斉書 1972, pp. 251–252.
- ^ a b 北斉書 1972, p. 252.
- ^ 氣賀澤 2021, pp. 255–256.
伝記資料
[編集]参考文献
[編集]- 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。
- 王連龍『新見北朝墓誌集釈』中国書籍出版社、2013年。ISBN 978-7-5068-3445-2。