伊藤俊介 (政治家)
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伊藤 俊介(いとう しゅんすけ、1870年9月5日(明治3年8月10日[1][2][3])- 1924年(大正13年)1月24日[3][注釈 1])は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、神戸基督教青年会会長。
経歴
[編集]播磨国宍粟郡、のちの兵庫県[4]宍粟郡染河内村[3][5][6](一宮町[3]を経て現宍粟市一宮町)で生まれた。のち伊藤繁右衛門の養子となる[2]。同志社、第三高等学校を経て[3][5]、1896年(明治29年)帝国大学法科大学政治学科を卒業した[3][4][5][6]。
兵庫県農工銀行に入り[3]、のち取締役兼支配人に就任[2][3][4][6]。伊藤博文の別名と間違えられて有名となり[3]、1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(兵庫県郡部、壬寅会)で当選し[2][3][7]、衆議院議員に1期在任した[4][6]。しかし、農工銀行の経営に支障が起こり、その責めを負って退社した[3][5]。その後、(株) 神港倶楽部代表者を務め[8]、社会事業にも携わった[3]。また、神戸市会議員も務めた[4][6]。
また、神戸多聞教会、神戸教会に所属したキリスト教徒で、1899年(明治32年)5月に再興された神戸基督教青年会(現:公益財団法人神戸YMCA)の会長に就任し翌年まで務めた[3][9]。
家族
[編集]- 養父・伊藤繁右衛門
- 妻・はる(1875年生) - 近江八幡(滋賀県)の鋳物師で素封家の望月菅治郎の四女。同志社女学校出身。俊介が京都でキリスト教の布教活動中に知り合い結婚。[10][11][12]
- 長女・ちよ(1899年生)
- 二女・登美(1902年生) - 幼い頃より琴、ピアノ、上村松園に日本画を学ぶ。俊介の部下だった田村堅三と未婚のまま長女・俊子を儲ける(のち結婚)。[11]
- 孫・佐々木静子 - 登美の二女。弁護士
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』45頁では1月25日。
出典
[編集]- ^ 衆議院『衆議院議員名簿』〈第十七回帝国議会衆議院公報第1号附録〉、1902年、5頁。
- ^ a b c d 『人事興信録 初版』18-19頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『兵庫県人物事典 中巻』7-8頁。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』45頁。
- ^ a b c d 『現代兵庫県人物史』340-341頁。
- ^ a b c d e 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』33頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』6頁。
- ^ 『神戸市会社名鑑 大正12年』194頁。
- ^ 『神戸とYMCA百年』111、113-114頁。
- ^ 伊藤俊介『人事興信録』初版 [明治36(1903)年4月]
- ^ a b 『もえる日日: わたし自身の暦』佐々木静子、ミネルヴァ書房, 1984、p7-11
- ^ 『命もやして』佐々木静子、潮出版社、2014、p170
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。
- 田住豊四郎編『現代兵庫県人物史』県友社、1911年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 神戸市商工課編『神戸市会社名鑑 大正12年』神戸市商工課、1923年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『兵庫県人物事典 中巻』のじぎく文庫、1967年。
- 神戸YMCA100年史編纂室編『神戸とYMCA百年』神戸キリスト教青年会、1987年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。