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伊藤勝三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊藤 勝三
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 秋田県
生年月日 (1907-05-14) 1907年5月14日
没年月日 (1982-02-10) 1982年2月10日(74歳没)
身長
体重
164 cm
53 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手一塁手
プロ入り 1936年
初出場 1936年5月5日
最終出場 1936年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 大東京軍(1936)

伊藤 勝三(いとう かつぞう、1907年5月14日 - 1982年[1]2月10日)は、秋田県秋田市千秋矢留町(旧上中城町)出身[2]のプロ野球選手(捕手一塁手)、監督

日本プロ野球における選手兼任監督第1号である。

来歴・人物

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秋田中学(現・秋田県立秋田高校)時代は、捕手として2度の全国中等学校優勝野球大会第8回大会第10回大会)に出場した。慶應義塾大学では控え捕手に甘んじたが、社会人野球の東京倶楽部では慶大時代のチームメイトである宮武三郎らと共に活躍し、1931年に開催された第5回全日本都市対抗野球大会で優勝した。

全日本職業野球連盟が発足した1936年大東京軍に入団すると、永井武雄監督解任の後を受けて選手兼任監督に就任したが、2勝27敗3分、勝率.069という惨憺たる成績を受けシーズン途中で解任された。選手としてもこの年限りで引退している。

その後、太平洋戦争少尉として従軍する[3]1940年4月30日山西省沢州付近で敗残兵掃討中に右上腕部に貫通銃創を受けた[4]

戦後は地元秋田の実業団野球連盟初代支部長に就任し、妻の実家が創業した製本会社・高揚堂書店で常務・社長を歴任する傍ら、母校・秋田高校野球部の指導を行うなどし、1982年2月10日、74歳で没する。没後、未亡人を通じ、秋田の高校全体を支援する「伊藤勝三スポーツ振興基金」秋田高校野球部を支援する「伊藤勝三基金」が設けられている。

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1936春夏 大東京 5 14 13 3 4 0 0 0 4 3 1 -- 0 -- 1 -- 0 1 -- .308 .357 .308 .665
1936 9 38 32 3 7 3 2 0 14 3 1 -- 0 -- 6 -- 0 5 -- .219 .342 .438 .780
通算:1年 14 52 45 6 11 3 2 0 18 6 2 -- 0 -- 7 -- 0 6 -- .244 .346 .251 .746

通算監督成績

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  • 32試合 2勝27敗3分 勝率.069 

記録

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背番号

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  • 21 (1936年)

参考文献

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脚注

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  1. ^ 伊藤勝三 週刊ベースボールONLINE
  2. ^ http://akitahs-doso.jp/libra/58
  3. ^ 「バットを銃に持替へて… 元六大学の花型四選手応召」朝日新聞、1938年8月24日付東京朝刊11面。
  4. ^ 「元慶大野球部伊藤選手戦傷」朝日新聞、1940年5月21日付東京朝刊7面。

関連項目

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外部リンク

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