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伊藤博精

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊藤 博精
伊藤󠄁󠄁 博󠄁精󠄀
いとう ひろよし
貴族院公爵議員・伊藤博精
生年月日 (1899-05-02) 1899年5月2日
没年月日 (1962-02-08) 1962年2月8日(62歳没)
出身校 東京農業大学卒業
所属政党 火曜会
称号 従三位
勲四等
公爵
配偶者 伊藤福
子女 長男・伊藤博雅
長女・西浦邦子
次女・中山雪子
三女・千家文子
四女・廣瀬典子
五女・松平久子
親族 父・伊藤博邦(元貴族院議員)
養祖父・伊藤博文(初・第5・7・10代内閣総理大臣
義祖父・高橋是清(第20代内閣総理大臣)
大叔父・井上馨(第6代大蔵大臣
伯父・井上勝之助(元貴族院議員)

選挙区公爵議員
在任期間 1931年7月1日 - 1947年5月2日
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伊藤 博精(いとう ひろよし、旧字体伊藤󠄁 博󠄁精󠄀1899年明治32年〉5月3日[1] - 1962年昭和37年〉2月8日[1][2])は、大正から昭和前期の宮内官、政治家華族貴族院公爵議員

経歴

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宮内官・伊藤博邦伊藤博文養嗣子、井上馨の甥)、たま夫妻の長男として生まれる[1][3]1922年(大正11年)東京農業大学を卒業[2][3]1923年(大正12年)三井合名会社に就職[2]。その後、李王職御用掛、掌典などを務めた[2][3]。父の死去に伴い1931年(昭和6年)7月1日、公爵を襲爵し[1]貴族院公爵議員に就任[2][4]火曜会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]

親族

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  • 母 伊藤たま(高島嘉右衛門長女)[1]
  • 妻 伊藤福(高橋是福二女、高橋是清孫)[1]
  • 長女 邦子(1926年4月7日生、西浦昌男夫人[5])
  • 次女 雪子
  • 長男 伊藤博雅(1929年11月10日生[5])、学習院を経て、明治乳業勤務[6]
    • 妻は祥子(1938年1月23日~1979年10月7日、山家藩谷氏の子爵谷閑衛長女[5])
      • 孫 博子(1963年3月8日生、智明夫人[5])
      • 養孫 智明(1965年9月3日生、石井竹二三男[5])
      • 孫八重子(1965年4月28日生[5])
  • 三女 文子(千家達彦夫人、[5])
  • 四女 典子(1934年11月20日生、廣瀬和栄夫人[5])
  • 五女 久子(桑名松平定純夫人、[5])

栄典

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脚注

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  1. ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成 上巻』167-169頁。
  2. ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』7頁。
  3. ^ a b c 『人事興信録 第14版上』イ72頁。
  4. ^ 『官報』第1352号、昭和6年7月3日。
  5. ^ a b c d e f g h i 平成新修旧華族家系大成上p167-168
  6. ^ 『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇』竹内正浩、実業之日本社, 2017、「伊藤博文」の章
  7. ^ 『官報』第2029号「叙任及辞令」1919年05月02日。
  8. ^ 『官報』第3242号「叙任及辞令」1923年05月23日。
  9. ^ 『官報』第845号「叙任及辞令」1929年10月23日。
  10. ^ 『官報』第1352号『帝國議會 - 貴族院』1931年07月01日。
  11. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第14版上』人事興信所、1943年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
日本の爵位
先代
伊藤博邦
公爵
伊藤(博文)家第3代
1931年 - 1947年
次代
華族制度廃止