伊藤博精
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伊藤 博精 (伊藤󠄁󠄁 博󠄁精󠄀) いとう ひろよし | |
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貴族院公爵議員・伊藤博精 | |
生年月日 | 1899年5月2日 |
没年月日 | 1962年2月8日(62歳没) |
出身校 | 東京農業大学卒業 |
所属政党 | 火曜会 |
称号 |
従三位 勲四等 公爵 |
配偶者 | 伊藤福 |
子女 |
長男・伊藤博雅 長女・西浦邦子 次女・中山雪子 三女・千家文子 四女・廣瀬典子 五女・松平久子 |
親族 |
父・伊藤博邦(元貴族院議員) 養祖父・伊藤博文(初・第5・7・10代内閣総理大臣) 義祖父・高橋是清(第20代内閣総理大臣) 大叔父・井上馨(第6代大蔵大臣) 伯父・井上勝之助(元貴族院議員) |
選挙区 | (公爵議員) |
在任期間 | 1931年7月1日 - 1947年5月2日 |
伊藤 博精(いとう ひろよし、旧字体:伊藤󠄁 博󠄁精󠄀、1899年〈明治32年〉5月3日[1] - 1962年〈昭和37年〉2月8日[1][2])は、大正から昭和前期の宮内官、政治家、華族。貴族院公爵議員。
経歴
[編集]宮内官・伊藤博邦(伊藤博文養嗣子、井上馨の甥)、たま夫妻の長男として生まれる[1][3]。1922年(大正11年)東京農業大学を卒業[2][3]。1923年(大正12年)三井合名会社に就職[2]。その後、李王職御用掛、掌典などを務めた[2][3]。父の死去に伴い1931年(昭和6年)7月1日、公爵を襲爵し[1]貴族院公爵議員に就任[2][4]。火曜会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]。
親族
[編集]- 母 伊藤たま(高島嘉右衛門長女)[1]
- 妻 伊藤福(高橋是福二女、高橋是清孫)[1]
- 長女 邦子(1926年4月7日生、西浦昌男夫人[5])
- 次女 雪子
- 長男 伊藤博雅(1929年11月10日生[5])、学習院を経て、明治乳業勤務[6]。
- 三女 文子(千家達彦夫人、[5])
- 四女 典子(1934年11月20日生、廣瀬和栄夫人[5])
- 五女 久子(桑名松平定純夫人、[5])
栄典
[編集]- 1919年(大正8年)5月10日 - 従五位[7]
- 1923年(大正12年)5月12日 - 正五位[8]
- 1929年(昭和4年)6月1日 - 従四位[9]
- 1931年(昭和6年)7月1日 - 公爵[10]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[11]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成 上巻』167-169頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』7頁。
- ^ a b c 『人事興信録 第14版上』イ72頁。
- ^ 『官報』第1352号、昭和6年7月3日。
- ^ a b c d e f g h i 平成新修旧華族家系大成上p167-168
- ^ 『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇』竹内正浩、実業之日本社, 2017、「伊藤博文」の章
- ^ 『官報』第2029号「叙任及辞令」1919年05月02日。
- ^ 『官報』第3242号「叙任及辞令」1923年05月23日。
- ^ 『官報』第845号「叙任及辞令」1929年10月23日。
- ^ 『官報』第1352号『帝國議會 - 貴族院』1931年07月01日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第14版上』人事興信所、1943年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 伊藤博邦 |
公爵 伊藤(博文)家第3代 1931年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |