伊達斉義
伊達斉義像(仙台市博物館蔵) | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 寛政10年3月7日(1798年4月22日) |
死没 | 文政10年11月27日(1828年1月13日) |
改名 | 吉五郎(幼名)、田村顕嘉、伊達宗義、斉義 |
別名 | 通称:石見→藤次郎 |
諡号 | 正山公 |
戒名 | 曹源院殿正山栄宗大居士 |
墓所 | 宮城県仙台市の経ヶ峯伊達家墓所 |
官位 | 従四位下左近衛権少将、陸奥守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 陸奥仙台藩主 |
氏族 | 田村氏→伊達氏 |
父母 |
父:田村村資、母:脇坂安親の娘・阿琴 養父:伊達斉宗 |
兄弟 | 政五郎、哲也、おかね、斉義、田村顕彰、常ら |
妻 |
正室:伊達斉宗の娘・芝姫 側室:砂沢定栄娘・美寿、山本敬勝娘・恒子 |
子 |
勁松院、祺丸、慶邦、依、保子 養子:斉邦 |
伊達 斉義(だて なりよし)は、江戸時代後期の大名。仙台藩11代藩主。伊達氏27代当主。官位は従四位下・左近衛権少将、陸奥守。
経歴
[編集]寛政10年3月7日(1798年4月22日)、仙台藩5代藩主・伊達吉村の八男・伊達村良の庶長子である陸奥一関藩主・田村村資の四男[注釈 1](すなわち吉村の曾孫にあたる)として江戸にて誕生。母は脇坂安親の娘。『寛政重修諸家譜』では幼名を吉五郎と記される[注釈 2]。誕生直後、父の村資は隠居し、田村家は既に養子になっていた宗顕が相続した。
文化9年(1812年)に元服して諱を顕嘉(あきよし)、通称を石見と称した。相応しい年齢に達していないという理由で宗顕の養嗣子とならず、部屋住み身分として一関へ下る。
文政2年(1819年)4月26日に一関から仙台城に迎えられ、仙台藩の「藩治を摂関」する。仙台藩から幕府に願いが提出された末に、同年5月25日、嗣子なくして亡くなった10代藩主・斉宗の娘と婚約、その婿養子という形で11代藩主に就任した。なお、婚約者の芝姫は当時3歳であった。同年5月27日に氏を田村から伊達に、通称を石見から藤次郎に改める。
同年7月に亡き養父・斉宗より1字を取って諱を宗義(むねよし)と改め、さらに8月には江戸に上り11代将軍・徳川家斉に御目見して斉義(なりよし)と改名[注釈 3]し、従四位少将に叙任し、陸奥守となる。
ちなみに斉宗の後継候補には斉義の他に、伊達家一門の登米伊達家の伊達宗充[注釈 4]の子である幸五郎(のちの12代藩主・伊達斉邦、当時2歳)や同じく一門の涌谷伊達氏の源次郎(のちの伊達義基)がいたが、斉宗との血統の近さと年齢から見て斉義が適当だったとされる。
文政9年2月22日(1826年)に斉宗の娘である芝姫と婚礼を挙げるが、文政10年11月27日(1828年1月13日)、江戸で死去した。享年30(満29歳)。
後継者問題
[編集]斉義が死去した当時、文政8年9月6日(1825年10月17日)生まれの次男・穣三郎(後の慶邦)がいたが、幼少で御目見が済んでいないため、幕府に家督の相続を認められるのが困難な状況にあり、後継者選定は難航した。
老中の水野忠成は陸奥国仙台藩家臣・大條道直(監物)を呼びつけ、当時13歳であった斉義の正室の芝姫に将軍・徳川家斉の子を嫁がせて伊達家養嗣子にし、仙台藩を相続させるように提案がなされた。しかし大条はこれを断り、一族の伊達宗充(長門)の子で、斉義の従弟でかつての藩主後継候補の幸五郎(改め伊達斉邦)が斉義の娘婿となって仙台藩主を相続することとなった。
この斉義の後継者問題の一件は、『仙台叢書 第11巻』や『三百藩家臣人名事典1』に記されているが、公式記録にはなく、『三百藩藩主人名事典1』や『仙台市史』には記されていない。
系譜
[編集]- 父:田村村資(1763-1808)
- 母:阿琴 - 宝寿院、脇坂安親の娘
- 養父:伊達斉宗(1796-1819)
- 正室:芝姫(蓁子)(1816-1858) - 伊達斉宗の娘
- 側室:美寿 - 砂沢定栄の娘
- 側室:恒子 - 山本敬勝の娘
- 次男:伊達慶邦(1825-1874) - 13代藩主
- 次女:依(1827-1829) - 夭逝
- 養子
偏諱を受けた人物
[編集]宗義・斉義時代(「義」[注釈 3]の字)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 実子としては三男である。田村宗顕は養子ではあるが嫡子で、村資の三男として扱われるため、斉義は四男となる
- ^ 政五郎とする資料も存在する[1]。この場合、夭折した長兄の政五郎と同名である。
- ^ a b 伊達氏の通字「宗」や「村」を使用すると養父の斉宗(10代藩主)、その父・斉村(8代藩主)と同名になるのを避け、「義」の字を諱の2字目に用いた。また、中村義景・義房の父子は、逆に斉義の偏諱である「義」の字を避け景貞・景房に改名している。
- ^ 父・田村村資の実弟にあたる。
- ^ 生母を延寿院・山本氏恒子とする資料も存在する[2]。