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伊達政宗 (大膳大夫)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊達 政宗
長谷川養辰「伊達政宗像」
仙台市博物館蔵)
時代 南北朝時代 - 室町時代初期
生誕 正平8年/文和2年(1353年
死没 応永12年9月14日1405年10月7日
諡号 儀山公
戒名 東光寺殿儀山圓孝大居士
墓所 山形県高畠町東光寺跡、資福寺跡
官位 大膳大夫
幕府 室町幕府
主君 足利義満
氏族 伊達氏
父母 伊達宗遠結城宗広娘・高明院
兄弟 政宗大條宗行最上直家正室
蘭庭明玉禅尼
氏宗 、女子(中村家朝[1]
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伊達 政宗(だて まさむね)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将伊達氏9代当主。

生涯

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伊達宗遠の子。天授3年/永和3年(1377年)に家督を相続。

天授6年/康暦2年(1380年)頃から、父・宗遠と出羽国置賜郡に侵攻し、元中2年/至徳2年(1385年)には長井氏を滅ぼして、置賜を伊達氏の拠点とした。以降、奥州仕置まで200年余りにわたって、置賜は伊達氏の支配下に置かれた。

応永7年(1400年)、鎌倉公方足利満兼が弟の満貞(稲村公方)と満直(篠川公方)を奥州に派遣し、伊達家に対して領土割譲を求めてきた事を拒み、大崎氏などと同盟して鎌倉方の結城満朝(白河満朝)や上杉氏憲と戦った(伊達政宗の乱)。

応永9年(1402年)、鎌倉府との抗争により出羽国の諸氏(寒河江氏白鳥氏など)に陸奥国苅田城(宮城県白石市?)を包囲される[2]。同年出羽高畑城(現在の山形県高畠町)に入り、応永12年(1405年)に同地で没した[3](直ちに本拠地に復帰し、応永13年後半から応永14年3月ころに没したという研究もある。[4])。

死後

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事績から政宗は伊達家中興の祖として称えられるようになり、初代陸奥仙台藩主となる藤次郎政宗は、この中興の祖にあやかり命名された。

系譜

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脚注

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  1. ^ 野州中村神社縁起 P24(中村神社文書編纂委員會、中村神社顕彰會、ISBN-4815031096)
  2. ^ 「戸沢家譜」『寒河江市史 上巻』p.537
  3. ^ 政宗の墓とされるものは、高畠町内に2ヵ所(東光寺跡、資福寺跡)ある。
  4. ^ 伊藤喜良『伊達一族の中世』吉川弘文館、156-158頁。 
出典

関連作品

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