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伴宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伴宗
時代 平安時代初期
生誕 延暦11年(792年
死没 斉衡2年1月28日855年2月19日
官位 従五位下大判事
主君 仁明天皇文徳天皇
氏族 伴良田連→伴宿禰
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伴 宗(とも の むね)は、平安時代初期の貴族は伴良田連のち伴宿禰官位従五位下大判事

出自

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伴良田氏(伴良田連)は、大伴氏の一族で讃岐国多度郡良田郷を発祥とする[1]

経歴

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地方の出身であったが、若くして大学に入って明法道に専心し、律令を習読した[2]。初め大宰明法博士に任ぜられ、承和8年(841年)右少史、承和11年(844年)右大史、承和12年(845年)左大史と仁明朝後半に太政官を歴任する。左大史在任中に発生した善愷訴訟事件では、善愷の訴状を違法に受理して、訴えられた登美直名を私曲して有罪にしたとして、正躬王ら5名の弁官は私罪に該当することから、弁官を解任の上で贖銅10斤を課すべき、との意見書を承和13年(846年)に提出している[3]

承和14年(847年従五位下に叙せられる。嘉祥元年(848年勘解由次官次いで大判事に転任し、翌承和2年(849年明法博士を兼ね、嘉祥3年(850年内位の従五位下に叙せられた。またこの頃、伴良田連から伴宿禰に改姓している。

文徳朝仁寿4年(854年備後介を兼ねるが、翌斉衡2年(855年)1月28日卒去。享年64。最終官位は大判事兼明法博士備後介従五位下。

官歴

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六国史』による。

脚注

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  1. ^ 太田[1963: 6485]
  2. ^ 『日本文徳天皇実録』斉衡2年正月28日条
  3. ^ 続日本後紀』承和13年11月14日条

参考文献

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