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登美直名

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
登美直名
時代 平安時代初期
生誕 延暦11年(792年
死没 仁寿3年6月10日853年7月19日
官位 従五位下豊後権守
主君 嵯峨天皇淳和天皇仁明天皇文徳天皇
氏族 登美真人
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登美 直名(とみ の ただな)は、平安時代初期の貴族用明天皇の後裔。官位は従五位下・豊後権守

経歴

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弘仁13年(822年主膳監正に任ぜられる。淳和朝では美濃大掾近江大掾大和介と地方官を歴任し、この間の天長4年(827年)に従五位下叙爵している。

承和2年(835年大判事に転じたのち、承和9年(842年散位頭、承和11年(844年少納言と、仁明朝では京官を歴任する。承和12年(845年)直名自身が有力檀越であった法隆寺の僧・善愷から、寺財の不当売却とその利益の不当収取(布22端3丈に相当)を理由に訴えられる。弁官らの審理により当初遠流の判決を受けるが、承和13年(846年)には右少弁伴善男の主張により訴訟は無効とされ、直名は無罪となった(善愷訴訟事件[1]

直名は無罪となったもの、事件後間もない承和14年(847年)正月に大宰少弐として地方官に転任する。さらに嘉祥2年(849年)8月には豊後権守に転じ、同年12月には直名が謀反したとして大宰府より朝廷に対して報告がなされている[2]。その後流罪となるが、嘉祥3年(850年)罪を赦され放免された[3]

仁寿3年(853年)6月10日卒去。享年62。最終官位は前豊後権守従五位下。

人物

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非常に才学があり、弁舌が人並み以上に優れていた。自分に対して不服の申し立てがあってもこれを抑え込んで、必ず報復するような悪い癖があり、論者にはこのことで憎まれたという。善愷訴訟事件において、遂には弁官を除名させるに至ったのは、まさにこの類の事柄であった。[4]

善愷訴訟事件での当初の審理において、正躬王ら弁官は直名について、国家においては憎むべき奸臣で、家においては欲が深く人の道に背く人物である、と主張したという[1]

官歴

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六国史』による。

脚注

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  1. ^ a b 『続日本後紀』承和13年11月14日条
  2. ^ 『続日本後紀』嘉祥2年12月13日条
  3. ^ 『続日本後紀』嘉祥3年3月18日条
  4. ^ 日本文徳天皇実録』仁寿3年6月10日条

参考文献

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