住田善平
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住田 善平 | |
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生年月日 | 1855年11月7日 |
出生地 |
鳥取県西伯郡成実村 (現米子市美吉) |
没年月日 | 1906年9月8日(50歳没) |
前職 | 呉服商 |
親族 | 息子・住田寅次郎(米子町会議員) |
米子町長 | |
在任期間 | 1896年12月26日 - 1900年12月25日 |
町会議員 | |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1889年8月 - |
郡会議員(1) | |
在任期間 | 1896年9月19日 - 1899年9月29日 |
郡会議員(2) | |
在任期間 | 1903年9月30日 - 1906年9月8日 |
県会議員 | |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1893年 - |
住田 善平(安政2年(1855年)11月7日 - 明治39年(1906年)9月8日)は、日本の実業家、政治家。住田呉服店の主人。旧姓瀬尾。元米子銀行監査役[1]。初代米子町名誉助役[2]。第四代米子町長[2]。
元米子町会議員住田寅次郎の父。娘は境町(現境港市)の回船問屋武良(むら)家に嫁いだ。漫画家水木しげる(本名武良茂)は善平の曾孫にあたる。
経歴
[編集]鳥取県西伯郡成実村大字美吉・瀬尾家に生まれた[3]。與喜蔵の二男[3]。幼名光太郎と称す[3]。米子東倉吉町住田善吉の養嗣となり家督を継承し四代の主となる[3]。住田氏は近世期中ごろから東倉吉町に居住し、“住田屋”を号した[4]。衣料、雑貨を営業し、近代に入って呉服類を中心に営業を継続拡張した[4]。
善平は学を好み郷儒高橋俊蔵に従い漢籍を研修した[3]。明治14年(1881年)連合町会議員に当選以来県会議員、郡会議員、町会議員、学務委員、名誉助役、町長等をつとめた。
略歴
[編集]- 明治22年(1889年)
家族・親族
[編集]住田呉服店について
[編集]→詳細は「住田呉服店」を参照
略系図
[編集]住田善吉 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
住田善平 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
住田友太郎 | 住田寅次郎 | 森川桑三郎 | 娘 | ||||||||||||||||||||||||||||||
史料(『米子自治史』より)
[編集]- 自治功勞者 - 住田 善平
- 明治十四年聯合町會議員に當選以來縣郡會議員、町會議員、學務委員、名譽助役、町長等の公職に在ること二十有六年熱誠克く町治に盡瘁し學校醫を始め火葬及公設芥溜場の設置、町徽章並に避病院藥價規程の制定等治績見るべきものあり、明治三十九年歿して大正十一年五月旌表規程により功勞章及銀盃壹個を賵り其の功勞を表彰せられ更らに自治制實施五十周年を迎へ特別功勞者として其の肖像寫眞を市役所内に掲げられた[15]。
参考文献
[編集]- 『米子自治史』 昭和14年(1939年)
関連
[編集]脚注
[編集]- ^ 『米子商業史』105頁
- ^ a b 『米子自治史』昭和14年(1939年)、三
- ^ a b c d e 『島根鳥取名士列伝、中』九十四
- ^ a b 『米子商業史』76頁
- ^ 『島根鳥取名士列伝、中』九十五
- ^ 『米子自治史』昭和14年(1939年)、三三
- ^ 『米子自治史』昭和14年(1939年)、二八
- ^ 『米子自治史』昭和14年(1939年)、六六
- ^ 『米子自治史』昭和14年(1939年)、三四
- ^ 『米子自治史』昭和14年(1939年)、六二
- ^ 『米子自治史』昭和14年(1939年)、二七
- ^ 『米子自治史』昭和14年(1939年)、三五
- ^ 『米子自治史』昭和14年(1939年)、六三
- ^ a b c d 『島根鳥取名士列伝、中』九十八
- ^ 『米子自治史』昭和14年(1939年)、一〇二六