佐久間勝盛
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佐久間 勝盛(さくま かつもり、寛永元年(1624年) - 正保3年9月29日(1646年11月6日))は、江戸時代の旗本。佐久間氏の一族。佐久間勝年の子。通称は辰千代、源六郎。
寛永9年(1632年)11月19日、将軍徳川家光に拝謁。寛永12年(1635年)、祖父の信濃長沼藩主勝之の死去により遺領から5000石の分知を受ける。その陣屋は父勝年の居館があった地(現長野市穂保貞心寺の境内にあたる)で、これを「長沼知行所」といった。なお江戸屋敷は愛宕下の長沼藩上屋敷の隣地(港区西新橋1-16)にあった[1]。
妻は初め北条美濃守氏信の娘と婚姻したが離縁し、ついで高遠藩主鳥居家の娘を正室とした[2]。
正保3年(1646年)9月29日、23歳で没したが嗣子がなく家は断絶した。
戒名は自照院固山道賢。墓所は西久保の青龍寺。二本榎広岳院に一族の子孫が幕末に安置した位牌がある[3]。
系譜
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- 「寛政重修諸家譜 巻第533」
参考文献
[編集]- いいづな歴史ふれあい館特別展図録『飯綱の地をひらいた“殿様”‐佐久間兄弟と長沼藩・飯山藩』2015年