北条氏信 (狭山藩主)
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長6年(1601年) |
死没 | 寛永2年10月24日(1625年11月23日) |
改名 | 太郎助、氏勝、氏信 |
戒名 | 竜興院殿梅澗宗雲大禅定門 |
墓所 | 祥雲寺(現・東京都渋谷区) |
官位 | 従五位下美濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 河内狭山藩主 |
氏族 | 後北条氏 |
父母 | 父:北条氏盛、母:船越景直の娘 |
兄弟 | 氏信、氏利、氏重 |
妻 | 正室:佐久間安政の娘 |
子 | 氏宗、娘(佐久間勝盛正室。のち離婚) |
北条 氏信(ほうじょう うじのぶ)は、河内国狭山藩の第2代藩主。正室は佐久間安政の娘[1]。子は北条氏宗、娘(佐久間勝盛正室、のち離婚)[2]。
生涯
[編集]慶長6年(1601年)、初代藩主・北条氏盛の長男として誕生[3]。母は船越景直の娘[1]。幼名は太郎助[4]。初名は氏勝[2]。
慶長13年(1608年)5月18日、父・氏盛が死去し、同日、8歳で家督を継ぐ[3][4]。同17年(1612年)、駿府で徳川家康に拝謁した[3]。その後、江戸へ行き、徳川秀忠に仕えた[3]。同年、愛宕下に上屋敷(江戸屋敷)を拝領した[5]。
慶長19年(1614年)、大坂の陣では、幼少のため江戸に留まった(牛込御門番)[3]。
元和元年(1615年)、豊臣家滅亡後、秀忠は諸大名に帰国を許し、氏信は初めて領地の池尻村(丹南郡[6])に入った[3]。同2年(1616年)春から狭山池の東北に陣屋(狭山陣屋)を構築した[3]。同6年(1620年)、池普請奉行を務めた[7]。
元和9年(1623年)8月6日、従五位下美濃守に叙任[2]。
寛永2年(1625年)10月24日、江戸藩邸で死去した[3][1]。25歳[3][4]。法号は竜興院殿梅澗宗雲大禅定門[4]。祥雲寺(現・東京都渋谷区)に葬られた[3]。
注釈
[編集]- ^ a b c 狭山町史編纂委員会 1967, p. 138.
- ^ a b c d 続群書類従完成会 1965, p. 303.
- ^ a b c d e f g h i j k 狭山町史編纂委員会 1967, p. 548.
- ^ a b c d 狭山町史編纂委員会 1967, p. 630.
- ^ 狭山町史編纂委員会 1967, p. 555.
- ^ 狭山町史編纂委員会 1967, p. 141.
- ^ 狭山町史編纂委員会 1967, p. 461.