北条氏久
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化13年7月2日(1816年7月26日)[1] |
死没 | 嘉永5年5月10日(1852年6月27日) |
改名 | 彦五郎、彦之丞(幼名)、庸修(初名)、氏久 |
戒名 | 顕光院殿仁峯義賢大居士 |
墓所 | 東京都渋谷区広尾の祥雲寺 |
官位 | 従五位下、相模守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 河内狭山藩主 |
氏族 | 戸田氏→後北条氏 |
父母 | 父:戸田氏庸、養父:北条氏喬 |
兄弟 |
姉(細川利用室)、戸田氏正、戸田庸達、 堀田正義、氏久、通之助、妹(青山幸哉室)、 戸田庸貞、妹(戸田氏有室)、 妹(大高喬度室)、妹(大高喬度継室)、 妹(戸田氏寿室)、戸田氏永、定之助、 芳之助、妹(戸田氏範室) |
妻 | 正室:北条氏喬の娘 |
子 | 養子:氏燕 |
北条 氏久(ほうじょう うじひさ)は、河内狭山藩の第10代藩主。
生涯
[編集]文化13年(1816年)、美濃大垣藩主・戸田氏庸の四男として生まれる。初名は庸修(つねなが)[1]。天保11年(1840年)12月、狭山藩の第9代藩主・北条氏喬の婿養子となる。天保13年(1842年)1月21日、氏喬が隠居したため、家督を継ぐ。
嘉永2年(1849年)に農民を兵士に徴兵する農兵を創設した。その見返りとして苗字帯刀を常時許し、賃金もある程度支払うことを容認している。しかし、このような軍備拡大は小藩の狭山藩では負担が大きく、ただでさえ悪化していた財政をさらに逼迫し、倹約による財政再建も行なっている。
嘉永5年(1852年)3月24日、養子の氏燕に家督を譲って隠居し、直後の5月10日に死去した。享年37。