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北条氏盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
北条 氏盛
時代 安土桃山時代-江戸時代初期
生誕 天正5年(1577年
死没 慶長13年5月18日1608年6月30日
別名 助五郎
諡号 松林院殿浄誉心徹大禅定門
墓所 専念寺(大阪市
官位 従五位下美濃守
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉徳川家康秀忠
河内狭山藩
氏族 後北条氏
父母 父:北条氏規
母:高源院(北条綱成の娘)
養父:北条氏直
兄弟 氏盛菊千代勘十郎松千代北条直定室、白樫三郎兵衛室、東条長頼
正室船越景直の娘
氏信(長男)、氏利(次男)、氏重(三男)
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北条 氏盛(ほうじょう うじもり)は、安土桃山時代の武将、江戸時代初期の大名。河内狭山藩の初代藩主。通称は助五郎。官位は従五位下、美濃守。

生涯

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従兄の後北条氏5代当主北条氏直徳川家康の次女督姫の養子となる。天正18年(1590年)、豊臣秀吉小田原征伐によって後北条氏が滅亡した後、父と共に高野山に向かったが、やがて秀吉に許され、天正19年(1591年)、養父氏直が病死するとその遺跡である下野4千石の所領を与えられた。翌天正20年(1592年)、朝鮮出兵肥前名護屋に従軍した。

慶長5年(1600年)、実父氏規が死去するとその家督を継ぎ、五大老筆頭の徳川家康からも河内狭山にあった父の遺領7千石を安堵された。こうして氏盛は計1万1千石の大名となり、狭山藩の初代藩主となった。同年、関ヶ原の戦いでは東軍の西尾吉次隊に属し本領安堵、家康の将軍就任後は徳川氏へ仕えた。慶長13年(1608年)に死去、享年32。法名は松林院殿浄誉心徹大禅定門。墓所は専念寺(大阪市)。家督はまだ幼い嫡男の氏信が継いだ。

系譜

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父母

正室

子女

出典

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