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北条氏時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
北条 氏時
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 享禄4年8月18日[1]1531年9月29日))
改名 伊勢新六郎、北条氏時
戒名 大虚院殿翁宗達大禅定門
官位 左馬助
主君 北条氏綱
氏族 伊勢氏後北条氏玉縄北条氏
父母 伊勢盛時(北条早雲)、母:小笠原政清の娘・南陽院殿?
兄弟 氏綱氏時葛山氏広長綱(幻庵)
長松院殿(三浦氏員室)
養子:為昌 (兄・氏綱の子)
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北条 氏時(ほうじょう うじとき)は、戦国時代武将伊勢盛時(北条早雲)の子。初代玉縄城主。

生涯

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伊豆国相模国戦国大名・伊勢盛時(北条早雲)の子として誕生した。生年は不明であるが、嫡男・北条氏綱と同腹の次男と推定されており[2]、兄・氏綱(1487年)から四弟・長綱(幻庵・1493年、一説に1501年)までの間ということになる。

氏時に関する史料は極めて少ない[3]享禄2年(1529年)5月15日付で伊豆国の三島大社護摩堂に宛てたものが初見文書であり、伊豆郡代または韮山城主であったと考えられる[2]。次の文書は同年8月19日付の相模国東郡二伝寺藤沢市)宛てのものでこの時には玉縄城主になっていたことになる[2]

大永6年(1526年)、安房国里見義豊が相模国鎌倉に乱入してきた際、戸部川で迎撃したとされている[4]。なお、戦後両陣営で首を交換し、それを埋め弔うために建てた供養塔(玉縄首塚)が残っており、供養は現在も「玉縄史蹟まつり」として毎年継承されている(鶴岡八幡宮の戦い)。

享禄4年(1531年)8月18日に死去した。子がなかったため[5]、玉縄城主は兄・氏綱の子の為昌に引き継がれた[1]

備考

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歌舞伎演目「本朝廿四孝」に「足利将軍義晴の頃、信濃村上義清と組んで行動する"小田原の太守北条氏時"」なる登場人物があるが、これは本記事の人物とも他の同名人物とも関係なく、実在しない。

脚注

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  1. ^ a b 黒田(2005),p.58.
  2. ^ a b c 黒田(2005),p.57.
  3. ^ 下山(1999),p.161.
  4. ^ 『玉縄首塚由来』、玉縄史跡顕彰会、鎌倉市岡本、昭和33年8月。
  5. ^ ただし、弟とされる葛山氏広が氏時の子であるとする異説もある。

参考文献

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  • 黒田基樹『戦国 北条一族』新人物往来社、2005年。ISBN 440403251X 
  • 下山治久『北条早雲と家臣団』有隣堂、1999年。ISBN 4896601564