北条氏時
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 享禄4年8月18日[1](1531年9月29日)) |
改名 | 伊勢新六郎、北条氏時 |
戒名 | 大虚院殿翁宗達大禅定門 |
官位 | 左馬助 |
主君 | 北条氏綱 |
氏族 | 伊勢氏、後北条氏(玉縄北条氏) |
父母 | 伊勢盛時(北条早雲)、母:小笠原政清の娘・南陽院殿? |
兄弟 |
氏綱、氏時、葛山氏広、長綱(幻庵) 長松院殿(三浦氏員室) |
子 | 養子:為昌 (兄・氏綱の子) |
北条 氏時(ほうじょう うじとき)は、戦国時代の武将。伊勢盛時(北条早雲)の子。初代玉縄城主。
生涯
[編集]伊豆国・相模国の戦国大名・伊勢盛時(北条早雲)の子として誕生した。生年は不明であるが、嫡男・北条氏綱と同腹の次男と推定されており[2]、兄・氏綱(1487年)から四弟・長綱(幻庵・1493年、一説に1501年)までの間ということになる。
氏時に関する史料は極めて少ない[3]。享禄2年(1529年)5月15日付で伊豆国の三島大社護摩堂に宛てたものが初見文書であり、伊豆郡代または韮山城主であったと考えられる[2]。次の文書は同年8月19日付の相模国東郡二伝寺(藤沢市)宛てのものでこの時には玉縄城主になっていたことになる[2]。
大永6年(1526年)、安房国の里見義豊が相模国鎌倉に乱入してきた際、戸部川で迎撃したとされている[4]。なお、戦後両陣営で首を交換し、それを埋め弔うために建てた供養塔(玉縄首塚)が残っており、供養は現在も「玉縄史蹟まつり」として毎年継承されている(鶴岡八幡宮の戦い)。
享禄4年(1531年)8月18日に死去した。子がなかったため[5]、玉縄城主は兄・氏綱の子の為昌に引き継がれた[1]。
備考
[編集]歌舞伎演目「本朝廿四孝」に「足利将軍義晴の頃、信濃村上義清と組んで行動する"小田原の太守北条氏時"」なる登場人物があるが、これは本記事の人物とも他の同名人物とも関係なく、実在しない。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 黒田基樹『戦国 北条一族』新人物往来社、2005年。ISBN 440403251X。
- 下山治久『北条早雲と家臣団』有隣堂、1999年。ISBN 4896601564。