佐藤義長
佐藤 義長 | |
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ライプツィヒにて撮影 | |
生誕 |
1866年7月2日 陸奥国若松 |
死没 |
1937年1月8日(70歳没) 栃木県宇都宮市 |
出身校 | 駒場農学校 |
職業 | 宇都宮高等農林校長、盛岡高等農林校長 |
配偶者 | 原るい子 |
佐藤 義長(さとう よしなが、1866年7月20日(慶応2年5月20日) - 1937年(昭和12年)1月8日)は、日本の農学者。農芸化学を専門とする農学博士で、宇都宮高等農林、盛岡高等農林の各校長を務めた。
経歴
[編集]幕末の会津若松博労町に生まれる[1]。会津藩藩士佐藤大八郎の長男であり[2]、会津会会員であった。幼少期に佐原盛純らに学び若松予科学校(現会津高校)に入学する[3]が、同校はその翌年に廃校となり[4]、上京した。佐藤は農学を志し、1888年(明治21年)に駒場農学校[* 1]を卒業した[* 2]。埼玉師範学校教諭、茨城農業技師を経て、栃木農業技師となり、渡良瀬川流域の農作物被害調査に従事し、古在由直と足尾銅山の鉱毒調査を行った[3]。京都農事試験場長、京都農学校長を歴任[2]。1903年(明治36年)、盛岡高等農林教授に就任[1]し、農産製造学を担当した[5]。独、仏、米での留学を経て、第二代校長に就任。在任中に博士会の推薦によって農学博士号を授与され[6]、また宮沢賢治は学生の一人であった[7]。1921年(大正10年)に学校昇格運動について文部省から謝罪を要求され、これを拒んで辞任した[3]。同校には蔵書399冊を寄贈している[3]。翌年に宇都宮高等農林の創立委員となり、欧米視察後に初代校長に就任した[1]。その建学に際し、佐藤は真面目、堅実を説き、浮華軽佻を戒めている[8]。1929年(昭和4年)に退官し、名誉教授となる。、大日本農会から紅白綬有功賞を授与され、農芸委員を務めた[2]。高等官一等、従三位勲二等[9][1]瑞宝章[3]に叙されている。著述に『東北乃事業』(文明堂、1909年)、『佐藤博士文集』などがある。「剛毅堅忍研学倦まず」、「資性宏量」と評された人柄であった[1]。
栄典
[編集]脚注
[編集]- 注釈
- 出典
- ^ a b c d e 『会津会雑第五十号 佐藤義長君』
- ^ a b c 『福島誌上県人会』画像166枚目
- ^ a b c d e 『佐藤博士文集』「佐藤博士略暦」
- ^ 『会津中学五十年史』
- ^ “農産製造学・食品化学研究室 同窓会ホームページ 農産製造学・食品化学研究室の歴史”. 2014年3月10日閲覧。
- ^ 『学位体系博士録』(昭和15‐16年版)
- ^ “「宮沢賢治学会 会報41号」 宇佐美怜子 宮沢賢治と宇都宮 宇都宮高等農林学校”. 2010年11月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月10日閲覧。
- ^ “U-tunes アグリ支援機構 (農学部)”. 2014年3月10日閲覧。
- ^ “官報第3008号”. 2014年3月10日閲覧。(画像5枚目)
- ^ 『官報』第1201号「叙任及辞令」1916年8月1日。
参考文献
[編集]- 佐藤義長『佐藤博士文集』
- 会津会『会津会雑誌第五十号』、1937年。
- 福島県友会出版部『福島誌上県人会』、1923年。
- 「元盛岡高等農林学校長佐藤義長他二名特旨叙位ノ件」「JACAR Ref.A11112958300、叙位裁可書・大正十年・叙位巻二十八(国立公文書館)」
外部リンク
[編集]- U-tunes 宇都宮大学の歴史(佐藤の肖像写真が掲載されている。)
- 峰ケ丘会報151号 農学部創立90周年記念 宇都宮大学農学部峰ケ丘同窓会
- 100年のあゆみ 沿革(農林センター) 京都府