コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

佐藤義長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐藤 義長
ライプツィヒにて撮影
生誕 1866年7月2日
陸奥国若松
死没 (1937-01-08) 1937年1月8日(70歳没)
栃木県宇都宮市
出身校 駒場農学校
職業 宇都宮高等農林校長盛岡高等農林校長
配偶者 原るい子
テンプレートを表示

佐藤 義長(さとう よしなが、1866年7月20日慶応2年5月20日) - 1937年昭和12年)1月8日)は、日本の農学者農芸化学を専門とする農学博士で、宇都宮高等農林盛岡高等農林の各校長を務めた。

経歴

[編集]

幕末会津若松博労町に生まれる[1]会津藩藩士佐藤大八郎の長男であり[2]会津会会員であった。幼少期に佐原盛純らに学び若松予科学校(現会津高校)に入学する[3]が、同校はその翌年に廃校となり[4]、上京した。佐藤は農学を志し、1888年(明治21年)に駒場農学校[* 1]を卒業した[* 2]埼玉師範学校教諭、茨城農業技師を経て、栃木農業技師となり、渡良瀬川流域の農作物被害調査に従事し、古在由直足尾銅山の鉱毒調査を行った[3]京都農事試験場長京都農学校長を歴任[2]1903年(明治36年)、盛岡高等農林教授に就任[1]し、農産製造学を担当した[5]での留学を経て、第二代校長に就任。在任中に博士会の推薦によって農学博士号を授与され[6]、また宮沢賢治は学生の一人であった[7]1921年(大正10年)に学校昇格運動について文部省から謝罪を要求され、これを拒んで辞任した[3]。同校には蔵書399冊を寄贈している[3]。翌年に宇都宮高等農林の創立委員となり、欧米視察後に初代校長に就任した[1]。その建学に際し、佐藤は真面目、堅実を説き、浮華軽佻を戒めている[8]1929年(昭和4年)に退官し、名誉教授となる。、大日本農会から紅白綬有功賞を授与され、農芸委員を務めた[2]高等官一等、従三位勲二等[9][1]瑞宝章[3]に叙されている。著述に『東北乃事業』(文明堂、1909年)、『佐藤博士文集』などがある。「剛毅堅忍研学倦まず」、「資性宏量」と評された人柄であった[1]

栄典

[編集]

脚注

[編集]
注釈
  1. ^ 『東京帝国大学一覧. 從大正元年 至大正2年』では農学科を次席卒業(同書227頁)。
  2. ^ 佐藤の修学には会津学校会による援助があり、山川健次郎らの指導を受けている。
出典
  1. ^ a b c d e 『会津会雑第五十号 佐藤義長君』
  2. ^ a b c 『福島誌上県人会』画像166枚目
  3. ^ a b c d e 『佐藤博士文集』「佐藤博士略暦」
  4. ^ 『会津中学五十年史』
  5. ^ 農産製造学・食品化学研究室 同窓会ホームページ 農産製造学・食品化学研究室の歴史”. 2014年3月10日閲覧。
  6. ^ 『学位体系博士録』(昭和15‐16年版)
  7. ^ 「宮沢賢治学会 会報41号」 宇佐美怜子 宮沢賢治と宇都宮 宇都宮高等農林学校”. 2010年11月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月10日閲覧。
  8. ^ U-tunes アグリ支援機構 (農学部)”. 2014年3月10日閲覧。
  9. ^ 官報第3008号”. 2014年3月10日閲覧。(画像5枚目)
  10. ^ 『官報』第1201号「叙任及辞令」1916年8月1日。

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]