俵津村
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たわらづむら 俵津村 | |
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廃止日 | 1955年3月21日 |
廃止理由 |
新設合併 俵津村・狩江村 → 豊海村 |
現在の自治体 | 西予市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 四国地方 |
都道府県 | 愛媛県 |
郡 | 東宇和郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
隣接自治体 | 宇和町・吉田町・狩江村 |
俵津村役場 | |
所在地 | 愛媛県東宇和郡俵津村 |
座標 | 北緯33度19分37秒 東経132度29分22秒 / 北緯33.32703度 東経132.48947度座標: 北緯33度19分37秒 東経132度29分22秒 / 北緯33.32703度 東経132.48947度 |
ウィキプロジェクト |
俵津村(たわらづむら)は、1955年(昭和30年)まで愛媛県東宇和郡にあった村である。
現在の西予市の西部に位置し、宇和海に面した農漁村であった。昭和の合併によりいったん豊海村(とよみむら)となり、さらに3年後の高山村との合併で明浜町(あけはまちょう),さらに平成の合併で西予市(せいよし)となり、現在に至っている。
地理
[編集]現在の西予市の西部。南は法花津湾(法華津湾、宇和海)に面し、湾奥に近い。北は極山や野福峠を境に宇和町(一足先の1954年に合併成立)に、東は小大崎鼻を境として吉田町(同じく1955年3月1日に合併、成立。直接接していた旧村は玉津村)に、西は狩江村に接している。
- 岬 小大崎鼻 - 玉津村との境
歴史
[編集]古代 - 中世
- 弥生時代のものとされる土器が出土している。
藩政期
明治以降
俵津村成立以降
- 1889年(明治22年)12月15日 - 町村制・市制施行時にも一村として存続。俵津村となる。
- 1899年(明治32年) - 自働組合設立。養蚕が奨励される。
- 1900年(明治33年) - 俵津反物会社設立。
- 1903年(明治36年) - 俵津漁業組合設立。
- 1915年(大正4年) - 俵津製糸合資会社設立。
- 1916年(大正5年) - 農業補習学校開設。
- 1919年(大正8年) - 電灯ともる。
- 1919年(大正8年) - 俵津織物会社設立。
- 1955年(昭和30年) 3月21日 - 狩江村との合併により、豊海村となる。
俵津村の系譜 (町村制実施以前の村) (明治期) 町村制施行時 田之浜浦 ━━━━┓ ┣━ 高山村 ━━━━━━━━━━━┓ 高山浦 ━━━━┛ ┃ ┣━━ 明浜町 俵津浦 ━━━━━━ 俵津村 ━━━┓ ┃(昭和33年1月1日) 狩浜浦 ━━━━┓ ┣━ 豊海村 ━┛ ┣━ 狩江村 ━━━┛(昭和30年3月21日) 渡江浦 ━━━━┛ (注記)明浜町の平成の合併の系譜については、明浜町の記事を参照のこと。
地域
[編集]俵津浦がそのまま俵津村となった。大字制はとらなかったが、豊海村になってから大字俵津となった。家屋は湾奥の海岸に沿って密集している。
行政
[編集]- 役場
- 俵津に置かれていた。
産業
[編集]- 農業
- 米、麦、甘藷芋、桑などを産した。藩政期から裏手の山の開墾が行なわれ、次第に段々畑を形成し、山頂近くまで畑となっていった。明治以降特に桑の栽培が奨励された。その後、背後の山々はウンシュウミカンへの転作が行なわれ、昭和40年代には傾斜地のほとんどは果樹園となった。
- 漁業
- 沿岸で鰯漁が営まれ、煮干等に加工されている。農業ほど盛んではない。
- 工業
- 明治から大正にかけて養蚕が盛んになり、製糸工場や反物工場も設立された。
交通
[編集]海岸に沿った県道が他の地域と結ぶ道路。宇和町との境は野福峠越え。
文化
[編集]- 俵津文楽 - 昭和37年愛媛県無形民俗文化財指定
名所
[編集]関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ 愛媛新聞社「愛媛県百科大事典」(1985年<昭和60年>刊)P125