倉本信護
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県 |
生年月日 | 1913年6月9日 |
没年月日 | 1983年1月23日(69歳没) |
身長 体重 |
168 cm 56 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 三塁手、捕手 |
プロ入り | 1936年 |
初出場 | 1936年 |
最終出場 | 1940年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督歴 | |
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この表について
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倉本 信護(くらもと しんご、1913年6月9日 - 1983年[1]1月23日)は、広島県[1]出身の日本プロ野球草創期の選手(内野手、捕手)。阪急軍創立時の正捕手でもあった。
来歴・人物
[編集]5年制の旧制広陵中学では田部輝男と年は違うが同学、岩本義行の3学年、濃人渉の2学年下、門前眞佐人、岡田宗芳の1学年上となる。1932年の第9回選抜中等学校野球大会に出場。4年生以降は野球部に所属していないので、3年で卒業し呉市の呉海軍工廠に入社したものと思われる。その後召集され兵役明けの22歳の時(1936年)、プロ野球リーグの創設で結成された大阪阪急野球協会(阪急軍)に誘われ入団[1]。阪急軍初代背番号17。当時は職業野球と呼ばれ世間から揶揄されたとされるが、「野球でメシが食えるなら」と何の抵抗もなく入団した。プロの第一印象は「捕手(島本義文)の送球が二塁までよう届かんのじゃ(二塁までちゃんと届かない。島本が長年の軍隊生活で肩を壊していたため)。これならやれるわい」だった。
プロ1期生として阪急の設立に参加した西村正夫、宮武三郎、山下実らと主力選手として活躍。日本初のプロ野球公式戦となった1936年4月の「第1回日本職業野球リーグ戦」で阪急の公式戦第1戦(対東京セネタース戦)でも7番・捕手として先発出場。夭折した阪急創成期のエース・北井正雄の最初と最後の勝利もバッテリーを組んだ。個人タイトルが初めて設立された1936年秋のシーズンは、飛ばないボールの時代で本塁打2本を打った山下、藤村富美男らが本塁打王になっているが、倉本も1本打っている。この本塁打はすでに現存していない洲崎球場の第1号本塁打ともいわれるが、真偽は不明。翌1937年春には同一シーズンに投手以外の全ポジションを守った(これを達成した選手には他に高橋博士がいるが、高橋は記録を狙ってのもの)とされるが、こちらも詳細は不明のままである。
同年秋季、名古屋軍に移籍[1]し主に三塁手を務め、主軸打者として活躍した。大沢清(大沢啓二の兄)の後の5番、6番を打った。翌1938年、打率.230、打点23、本塁打3本。そのうち1本が同年10月19日、後楽園球場での対東京セネタース戦、2対2の延長10回裏、浅岡三郎から放った史上初のサヨナラ満塁本塁打であった。1940年に名古屋金鯱軍に移籍する[1]が、シーズン途中に2度目の招集を受けて退団し、満州に渡った。
1940年、撫順市満鉄倶楽部の4番打者として代表決定戦で新京電々の西村幸生を打ち込み、第14回都市対抗野球大会に出場する。終戦後、国鉄広島鉄道局岡山管理部(後の岡山鉄道管理局)に就職し仕事を続けていたが白球への郷愁を断ち切りがたく、安定した職を捨て、1946年、広陵の先輩・平桝敏男、後輩・田部輝男、濃人渉、門前眞佐人、岩本信一や橋本正吾、広田修三らと広島駅前で映画館やパチンコ屋、キャバレーなどを経営していた広島鯉城園のノンプロチームに参加。同年夏、戦後初の都市対抗野球大会に出場。職業野球経験者をずらりと揃えながら、初戦で優勝した大日本土木に惨敗した。この後、東京カッブスから勧誘され、同チームの結成に参加した。このチームはまもなく広島鯉城園のメンバーと合流し、グリーンバーグとチーム名を変え、翌1947年に国民リーグに参加し、結城ブレーブスとさらにチーム名を変えた。倉本は4番を打ち、同年1シーズンのみ行われた同リーグの公式戦、夏季リーグで本塁打5本(30試合制)を放ち、本塁打王のタイトルを獲得。最多勝利のタイトルを獲った林直明らと共にチームの優勝に貢献した。国民リーグはこの1947年の一年のみで解散。秋季リーグは本塁打を2本打った選手がなく、本塁打王のタイトルを設けず、本塁打王が設けられたのは夏季リーグだけとなり、国民リーグただ一人の本塁打王として「プロ野球外史」にその名を残す。結城ブレーブスの貧しさは酷く、倉本はチーム唯一の妻帯者だったため、倉本の妻は合宿で選手全員の身の回りの面倒を見て、石本秀一監督の汚れたフンドシの洗濯などもしたという。国民リーグに参加した60数人の選手のうち、現存するプロ野球リーグに復帰できたのは8名のみだが、倉本は石本監督とソリが合わず復帰できなかったとされる。
翌1948年、前橋市・山藤商店の選手兼任監督として第19回都市対抗野球大会に出場したが、初戦で深見安博らを擁し優勝した西日本鉄道に延長戦で惨敗した。都市対抗野球出場の命を請けての加入と思われ、翌1949年、今度は鹿沼市・古沢建設に道仏訓、田部輝男と共に移籍し、第20回都市対抗野球大会に出場。6番・一塁手として出場するがまたも初戦敗退。倉本はその後、川崎市・鈴捨工業などノンプロを転々とし、45歳になる1958年頃まで職を変えながら現役選手を続けた。
倉本は口が重く社交下手、人を教えるのが苦手だったといわれ、野球を辞めた後は運送業に携わっていたが1983年1月、材木の積荷卸し作業中に事故死した。享年69歳。仏前には一日に5杯は愛飲したというコーヒーが今も供えられているという。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1936春夏 | 阪急 | 16 | 67 | 56 | 8 | 10 | 1 | 0 | 2 | 17 | 5 | 1 | -- | 1 | -- | 10 | -- | 0 | 9 | -- | .179 | .303 | .304 | .607 |
1936秋 | 23 | 74 | 62 | 5 | 12 | 5 | 0 | 1 | 20 | 4 | 2 | -- | 2 | -- | 10 | -- | 0 | 17 | -- | .194 | .306 | .323 | .628 | |
1937春 | 42 | 161 | 131 | 15 | 24 | 4 | 0 | 0 | 28 | 13 | 4 | -- | 5 | -- | 24 | -- | 1 | 29 | -- | .183 | .314 | .214 | .528 | |
1937秋 | 名古屋 | 13 | 35 | 30 | 2 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 1 | -- | 0 | -- | 5 | -- | 0 | 3 | -- | .133 | .257 | .133 | .390 |
1938春 | 26 | 106 | 90 | 8 | 25 | 4 | 0 | 0 | 29 | 6 | 1 | -- | 1 | -- | 15 | -- | 0 | 6 | -- | .278 | .381 | .322 | .703 | |
1938秋 | 40 | 164 | 132 | 17 | 26 | 6 | 0 | 3 | 41 | 17 | 0 | -- | 5 | -- | 27 | -- | 0 | 15 | -- | .197 | .333 | .311 | .644 | |
1940 | 金鯱 | 13 | 56 | 50 | 6 | 13 | 0 | 0 | 1 | 16 | 5 | 1 | -- | 0 | 0 | 4 | -- | 0 | 4 | -- | .260 | .315 | .320 | .635 |
通算:4年 | 173 | 663 | 551 | 61 | 114 | 20 | 0 | 7 | 155 | 51 | 10 | -- | 14 | 0 | 95 | -- | 1 | 83 | -- | .207 | .325 | .281 | .606 |
背番号
[編集]- 17 (1936年 - 1937年春季、1947年)
- 3 (1937年秋季)
- 12 (1938年)
- 10 (1940年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 倉本信護 - NPB.jp 日本野球機構