偰長寿
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偰長寿 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 설 장수 |
漢字: | 偰 長壽 |
日本語読み: | せつ ちょうじゅ |
偰 長寿(せつ ちょうじゅ、至正元年(1341年) - 建文元年10月19日(1399年11月5日))は、ウイグル族出身の高麗の文官。慶州偰氏の始祖偰文質の孫である偰遜の長男。高麗の恭愍王11年に文科に及第、判三司事を務めた[1]。1387年、元朝の混乱期に高麗へ逃亡した漢人の送還について協議するため、高麗から明へ派遣された。偰長寿は先祖が中国からの帰化人であったため、高麗は偰長寿を外交的に利用した[1]。弟の偰慶寿も、恭愍王の時代に文科に及第した[1]。同じく弟の偰眉寿は、恭愍王の時代に文科に及第、李氏朝鮮時代に礼曹判書まで登りつめた[1]。甥(偰慶寿の子)の偰循は、朝鮮の太宗の時代に文科に及第し、世宗の時代に集賢殿副提学を務めた[1]。