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元田昌義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
元田 昌義
興国高等学校 捕手コーチ
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 奈良県香芝市
生年月日 (1946-01-05) 1946年1月5日(78歳)
身長
体重
179 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1964年
初出場 1967年10月11日
最終出場 1969年10月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

元田 昌義(もとだ まさよし、1946年1月5日[1] - )は、奈良県香芝市出身の元プロ野球選手捕手)・コーチ

経歴

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御所工では東田正義と同期で、2年次の1962年春の選抜へ正捕手として出場。2回戦で松山商と対戦したが、山下律夫を攻略できず敗退[2]。3年次の1963年春の選抜に2年連続出場を果たして準々決勝に進むが、この大会に優勝した下関商池永正明に抑えられて敗退[2]。同年の春季近畿大会ではエース・戸田善紀を擁するPL学園を降して優勝し、夏の甲子園県予選でも決勝に進むが、高田高に惜敗。

卒業後の1964年南海ホークスへ入団。強打の選手ではあったが、入団時期が野村克也の全盛期と重なったため、一軍での出場機会はほとんどなかった。4年目の1967年10月11日近鉄戦(大阪)に高橋博の代打で初出場を果たし、鈴木啓示から初安打を放つ。この安打が現役最初で最後の安打になったため、打率は10割であった。1969年10月8日西鉄戦(平和台)に偵察オーダーで出場したのが最後の出場となり、同年限りで現役を引退。

引退後は南海→ダイエーで二軍コーチ補佐(1970年 - 1971年)、二軍打撃コーチ(1972年 - 1981年, 1983年 - 1995年)、一軍打撃コーチ(1982年)を務めた。在任中は一軍での実績は無かったが、その指導力は「元田教室」と言われるほど[3]評価され、選手からは怖いが面倒見の良さ[4]で「もっさん」と慕われた。二軍時代の定岡智秋河埜敬幸久保寺雄二新井宏昌をみっちり鍛えた[3]。退団後は台湾へ渡り、興農バッテリー技術顧問(1996年)、統一ヘッド兼打撃コーチ(1998年)を務めた[5]。14年間野球塾として小学生と中学生も指導し[6]、現在は少年野球チーム「大阪交野リトルシニア」アドバイザー[7]興国高校捕手コーチ[8]を務めている。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1967 南海 1 1 1 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1.000 1.000 1.000 2.000
1969 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
通算:2年 2 1 1 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1.000 1.000 1.000 2.000

背番号

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  • 35 (1964年 - 1969年)
  • 64 (1970年 - 1978年)
  • 85 (1979年 - 1982年、1986年 - 1988年)
  • 73 (1983年 - 1985年、1989年 - 1995年)
  • 75 (1996年)
  • 70 (1998年)

脚注

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  1. ^ http://www.obclub.or.jp/search/profile.php?id=1506 2011年8月8日閲覧
  2. ^ a b 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  3. ^ a b '80南海ホークスファンブックより。
  4. ^ 澤宮優「二軍」河出書房新社2014年3月19日ISBN 4309274706、p94。
  5. ^ http://www.irumen.com/~retsu/fstuffs.html 2011年8月8日閲覧
  6. ^ (公財)全日本大学野球連盟
  7. ^ 大阪交野リトルシニア 元田 昌義 - 熱投-NETTO
  8. ^ 野球部クラブパンフレット - 興国高校

関連項目

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