光吉健次
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光吉 健次(みつよし けんじ、1925年3月15日[1] - 2000年3月8日)は、日本の建築家、都市計画学者。九州大学名誉教授。社団法人日本都市計画学会九州支部初代支部長、財団法人福岡都市科学研究所初代理事長。
略歴
[編集]九州大学工学部建築学科の創設期に、九州大学での講義を兼務していた丹下健三(東京大学助教授、当時)の後を受けて助教授として赴任し、定年退官まで同学科の発展に寄与した。
丹下研究室時代には、倉吉市庁舎(1956年、鳥取県倉吉市)の設計等を担当した。九州大学では、建築学教室、九州大学五十周年記念講堂、工学部七十五周年記念庭園等を設計し、キャンパスの整備に貢献するとともに、九州各地において数多くの学校建築、商業建築、公共建築等を手がけた。
また、福岡市都市計画審議会会長など、九州各地の都市計画、建築行政に関する委員長、会長職を務め、自治体のマスタープラン策定、住宅地開発、生活環境の整備など、都市の発展に貢献した。さらに、九州大学退官後は、財団法人福岡都市科学研究所理事長を務め、都市計画の学術成果の普及に尽力するとともに、福岡市ユネスコ協会副会長として文化活動にも参与し、日本を研究する海外研究者との国際交流を通じて、日本の理解をひろめる定期的国際会議開催を実現した。
年表
[編集]- 1925年 - 鹿児島生まれ。
- 1950年
- 1955年
- 東京大学大学院修了。
- 九州大学助教授。
- 1971年 - 九州大学教授。
- 1979年 - 福岡市国土利用計画審議会会長。
- 1985年 - アジア太平洋博覧会福岡’89基本構想委員会専門委員会座長、福岡ユネスコ協会副会長、福岡市都市計画審議会会長、福岡市都市景観懇談会座長、福岡県豊かな景観を考える懇談会座長、福岡市特別土地保有税審議会会長、北九州市ホープ計画策定委員会会長。
- 1986年 - 福岡県文化懇話会座長、福岡市都心構想委員会会長、佐賀市中央地区更新開発計画委員会会長、佐世保市中心市街地活性化調査委員会会長。
- 1987年 - 福岡市総合計画審議会会長、福岡市屋外広告物審議会会長、福岡市都市景観審議会会長、福岡市商業近代化推進協議会部会長、香椎地区副都心整備計画委員会会長、福岡県建築住宅文化賞選考基準等検討委員会委員長、佐賀市唐人町南地区まちづくり計画策定委員会会長、粕屋地域都市基盤整備基本構想策定委員会委員長。
- 1988年
- 3月 - 九州大学定年退官。
- 4月 - 福岡都市科学研究所初代理事長。
- 5月 - 九州大学名誉教授、福岡市都市景観審議会会長、福岡市ウォーターフロント開発構想検討委員会会長、福岡シーサイドももち土地利用検討委員会会長、福岡舞鶴城址将来構想委員会会長、福岡市高齢化社会対策専門委員会座長、福岡県天神中央公園歩道橋選定委員会委員長、建設省第一回公共建築九州・沖縄地区審査委員会委員長。
- 2000年3月8日 - 脳梗塞のため逝去(74歳没)[1]。
作品・計画等
[編集](東京大学丹下研究室)
- 広島平和会館原爆記念陳列館(1952年、広島市)[2]
- 広島平和会館本館(1955年、広島市)[2]
- 広島平和会館公会堂計画(1953年、広島市)[2]
- 広島子供の家(1953年、広島市)[2]
- 愛媛県民館(1953年、松山市)[2]
- 神奈川県立図書館、音楽ホール計画(1952年)[2]
- 外務省庁舎計画(1952年、東京都)[2]
- 東京都庁舎(1957年、東京都)[2]
- 清水市庁舎(1954年、清水市)[2]
- 図書印刷株式会社原町工場(1955年、沼津市)[2]
- 倉吉市庁舎(1957年、倉吉市)[2]
(九州大学)
- 福岡市西消防署(1957年、福岡市)
- 久我興産ビル(1957年、福岡市)
- 中村医院(1957年、福岡市)
- 杉ノ井ホテル(1958年、大分県別府市)
- トルコ・イスタンブール工科大学設計協議応募作(1958年)
- 香月邸(1959年、福岡市)[3]
- 九州大学建築学教室(1960年、福岡市)[3][4]
- 浜玉町役場(1960年、佐賀県唐津市)[3][4]
- 丸屋デパート第1期(1960年、鹿児島市)[5]
- 福岡市役所基本計画(1961年、福岡市)
- 七山村立小学校(1962年、佐賀県唐津市)[6][7][8][4][9]
- 嘉穂高等学校図書館(1962年、福岡県飯塚市)[10][4]
- アルゼンチン・プジョービル国際設計応募作(1962年)[11]
- 若戸大橋料金所(1962年、北九州市)
- 国立劇場設計競技応募作(1963年)
- 国立京都国際会館設計競技応募作(1963年)[12]
- 光吉邸(1963年、福岡市)[13]
- 国立京都国際会館設計競技応募作(1964年)[12]
- 佐治邸(1964年、福岡市)[14]
- 浪速芸術大学学園総合計画設計競技応募作(1964年)[4]
- 川内聖母幼稚園(1964年、鹿児島県川内市)[15][16]
- 北九州市長期総合計画(1964年、北九州内市)
- 鹿子前ビジタセンター(1965年、長崎県佐世保市)[17][18][4]
- 永岡ビル(1965年、福岡市)
- 福岡市戦災死没者慰霊塔(1965年、福岡市)
- 直方市街地計画(1965年、福岡県直方市)
- 「明日の北九州展」パイロット・コミュニティー計画(1965年、北九州市)、[19]
- 川内カトリック教会(1966年、鹿児島県川内市)[4]
- 野の花学園(1966年、福岡市)
- 小倉駅北口再開発計画(1966年、北九州市)[19]
- 小倉栄町再開発計画(1966年、北九州市)[19]
- 福岡市総合計画基本計画・第1次改定(1966年、福岡市)
- 九州大学創立五十周年記念講堂(1967年、福岡市東区)[20][19][21][22]
- 丸屋デパート第2期(1967年、鹿児島市)
- 博多駅周辺計画(1967年、福岡市)[19]
- 八女市中心部再開発計画(1967年、福岡県八女市)[19]
- 佐賀市総合計画(1967年、佐賀市)
- 大牟田栄町地区再開発計画(1967年、福岡県大牟田市)
- 清風荘(1968年、鳥取県米子市)[23]
- 八女市中央公民館(1968年、福岡県八女市)[24][23][25]
- 浜玉中学校(1968年、佐賀県唐津市)[24][23]
- 福岡市水道局(1968年、福岡市)[25]
- 第2野の花学園(1968年、福岡市)
- 志免粕屋地区基本計画(1968年、福岡県)
- 八女市基本計画(1968年、福岡県八女市)
- 下和白コミュニティー計画(1968年、福岡市)
- 最高裁判所庁舎設計競技応募作(1969年)[26]
- 北九州市日明処理場本館(1970年、北九州市)[27][28]
- 安楽寺納骨堂(1970年、宮崎県都城市)[27][28]
- 浜玉中学校体育館(1970年、佐賀県唐津市)
- 浜玉町給食センター(1970年、佐賀県唐津市)
- 日明初音高層住宅(1970年、北九州市)
- 森邸(1970年、福岡市)
- 北九州市日明清掃工場(1971年、北九州市)
- 高浜邸(1971年、福岡市)
- 倉敷市水島第一下水処理場本館他(1971年、岡山県倉敷市)
- 北九州市消費生活センター計量検査合同庁舎(1971年、北九州市)
- 水巻町総合開発計画(1971年、福岡県水巻町)
- 小竹・宮田地区土地利用基本構想(1971年、福岡県直方市)
- 福岡市総合計画基本計画・第2次改定(1971年、福岡市)
- 箱根国際観光センター設計競技応募作(1971年)
- 糸田町大熊保育所(1972年、福岡県嘉穂郡糸田町)
- 北九州市皇后崎清掃工場(1972年、北九州市)
- 浜玉町浜玉小学校プール(1972年、佐賀県唐津市)
- 糸田町公民館(1972年、福岡県嘉穂郡糸田町)
- 荒川邸(1972年、福岡市)
- 斎藤邸(1972年、福岡市)
- 北元石油サンロードSS(1972年、鹿児島市)
- ホテル清風荘増築(1972年、鳥取県米子市)
- 福岡市土地利用基本構想および再開発構想調査(1972年、福岡市)
- 福岡都市圏緑住都市軸開発調査(1972年、福岡市)
- 小倉区魚町地区再開発計画(1972年、北九州市)
- 中津市コミュニティセンター(1972年、大分県中津市)
- 浜玉町中央公民館(1973年、佐賀県唐津市)
- 天神地区都心計画(1973年、福岡市)
- 福岡市商業近代化地域計画(1973年、福岡市)
- 福岡市西南部地区開発基本計画(1973年、福岡市)
- 北九州市基本構想・長期構想(1973年、北九州市)
- 北九州市グリーンプラン調査(1973年、北九州市)
- 北九州市皇后崎下水処理場管理センター(1974年、北九州市)
- 博多部地区振興計画(1974年、福岡市)
- 丸屋デパート増改築(1975年、鹿児島市)
- 福岡市近隣モデル計画(1975年、福岡市)
- 博多船溜利用計画(1975年、福岡市)
- フィリピン・マニラ低所得者用住宅地区開発設計競技応募作(1975年)
- 浜玉町社会体育館(1976年、佐賀県唐津市)
- 鹿児島城南教会・敬愛幼稚園(1976年、鹿児島市)[29]
- 福岡市総合計画基本計画・第3次改定(1976年、福岡市)
- 前原町適正人口調査(1976年、福岡県糸島郡前原町)
- 新門司清掃工場(1977年、北九州市)[29]
- 福岡市庁舎構想計画(1977年、福岡市)
- 福岡市地区情報に関する調査(1977年、福岡市)
- 福岡市人口配置計画(1978年、福岡市)
- 福岡市住環境整備計画(1978年、福岡市)
- イラン・パーレビ国立図書館設計競技応募作(1978年)
- 福岡国際センター総合ホール基本設計(1979年、福岡市)
- 福岡市商業市街地構想調査(1979年、福岡市)
- 福岡市工業地環境調査(1979年、福岡市)
- 宮田町貝島露天掘跡地等土地利用計画(1979年、福岡県宮田町)
- 鹿児島市中央地区いづろ商店街ペデストリアンデッキ計画(1979年、鹿児島市)
- 福岡市商業近代化実施計画(1980年、福岡市)
- 福岡市工業市街地構想調査(1980年、福岡市)
- 新建築会館設計競技応募作(1980年)
- 香港ピーク設計競技応募作(1980年)
- 北九州市東部斎場(1981年、北九州市)
- 水巻町庁舎公共施設配置計画ならびに中央区整備計画(1981年、福岡県水巻町)
- 宮田町貝島炭鉱跡地開発基本計画(1981年、福岡県宮田町)
- 福岡市水上公園基本計画(1981年、福岡市)
- 福岡市総合計画基本計画・第4次改定(1981年、福岡市)
- 小郡・筑紫野ニュータウン高圧線下利用計画検討(1981年、福岡県小郡市・筑紫野市)
- 福岡県営御幸町団地建替基本計画(1982年、福岡市)
- 福岡県営野間団地建替基本計画(1982年、福岡市)
- 水巻町庁舎および周辺整備計画(1982年、福岡県水巻町)
- 福岡県営千鳥団地基本計画(1983年、福岡市)
- 北元ビル(1983年、鹿児島市)
- 港湾機能更新に伴う住環境整備に関する調査(1983年、福岡市)
- 九州大学工学部創立75周年記念庭園(1984年、福岡市)
- 西日本新聞社新工場基本計画(1984年、福岡市)
- 水巻町総合開発計画(1984年、福岡県水巻町)
- 福岡市地区情報調査(1984年、福岡市)
- 国土利用計画策定支援システムの開発に関する調査(1984年、福岡市)
- 福岡県営豊団地基本計画(1985年、福岡市)
- 香椎振興整備計画調査(1985年、福岡市)
- 福岡市土地利用計画予備モデル開発(1985年、福岡市)
- 福岡市区別計画策定調査マスタープラン予備調査(1985年、福岡市)
- 全労済会館設計競技応募作(1985年)
- 福岡市企業振興センター基本構想(1986年、福岡市)
- 福岡県営さや団地基本計画(1986年、福岡市)
- 第二国立劇場設計競技応募作(1986年)
- アジア太平洋博覧会会場基本計画(1986年、福岡市)[30]
- アジア太平洋博覧会基幹施設(1987年、福岡市)[30]
- アサヒビール園博多(1989年、福岡市)
(出典:明日の建築と都市、1988年11月、九州大学出版会)
著書
[編集]- 明日の建築と都市(1988年11月、九州大学出版会、ISBN 487378204X)
- 遺産と創造 - もう1つの西洋建築史(1994年10月、海鳥社、ISBN 4874150837)
- モザイクのきらめき - 古都ラヴェンナ物語(2001年11月、九州大学出版会、ISBN 4873787068)
脚注
[編集]- ^ a b 『現代物故者事典2000~2002』(日外アソシエーツ、2003年)p.591
- ^ a b c d e f g h i j k 丹下健三,川添登「現実と創造─丹下健三1946-1958」美術出版社(1966年)
- ^ a b c 「近代建築」第15巻第3号(1961年3月)
- ^ a b c d e f g 「建築」第92号(1968年4月)
- ^ 「新建築」第37巻第8号(1962年8月)
- ^ 「建築文化」第18巻第195号(1963年1月)
- ^ 「国際建築」第31巻第9号(1964年9月)
- ^ 「建築年鑑」1964年版
- ^ 「Le Architecture D’Aujourd’hui」(1963年4-5月)
- ^ 「建築文化」第18巻第197号(1963年3月)
- ^ 「新建築」第37巻第9号(1962年9月)
- ^ a b 「新建築」第38巻第9号(1963年9月)
- ^ 「建築文化」第18巻第203号(1963年9月)
- ^ 「近代建築」第19巻第6号(1965年6月)
- ^ 「近代建築」第19巻第1号(1965年1月)
- ^ 「建築文化」第20巻第219号(1965年1月)
- ^ 「新建築」第41巻第2号(1966年2月)
- ^ 「近代建築」第20巻第3号(1966年3月)
- ^ a b c d e f 「建築」第90号(1968年2月)
- ^ 「新建築」第43巻第2号(1968年2月)
- ^ 「建築文化」第23巻第256号(1968年2月)
- ^ 「SD」第43号(1968年6月)
- ^ a b c 「建築」第97号(1968年11月)
- ^ a b 「新建築」第43巻第11号(1968年11月)
- ^ a b 「建築画報」(1969年1月)
- ^ 「建築」第105号(1969年6月)
- ^ a b 「新建築」第45巻第12号(1970年12月)
- ^ a b 「建築」第121号(1970年11月)
- ^ a b 「新建築」第52巻第12号(1977年12月)
- ^ a b 「新建築」第64巻第5号(1989年5月)